俳句つれづれ バックナンバー
(探鳥句会) 松永典子編(H29年1月6日より)
ローバの休日
№123 プリティウーマン
先日、地上波TVでプリティウーマンの再映があった。懐かしい!
リチャード・ギアとジュリア・ロバーツの
マンティックコメディー。アメリカ人の好きなシンデレラストーリーである。
実は、娘夫婦が高校生の頃、文化祭の
英語劇で、この物語のヒロインとヒーローを演じた。中々の評判だったらしい。私は見ていないが、同級生達が後で教えて
くれた。二人は別々の大学に進んだが、付き合いは続き、結局のところ結婚した。
その後二人の可愛いい孫を私に
プレゼントしてくれた。どっしりとした頼もしい母親となった彼女は小学5年生の長男と3年生の長女を育てつつ働くママとして
奮闘中である。コロナ騒ぎで、中々会えないのが淋しいが、今では私の生きがいの一つ。ピアノが好きな男の子と、バスケの選手
である女の子はどう育っていくのだろうか。小さなプリティウーマンの為平和で優しい世の中であって欲しいと祈るばかりである。
(R5年4月6日 松永典子)
№122 白鳥伝説
竹ノ内街道
転勤の果、終の棲家となりそうなここ羽曳野市。古市駅の周辺の一角にある町の名を白鳥(はくちょう)という。
ヤマトタケルが白鳥となって舞い降りたという伝説の白鳥陵がすぐ側にある。前の山古墳とも呼ばれ、静かな佇まいの中に圧倒的な
存在感でもってこの地を守っている。
墳丘長200mの5世紀後半の美しい大型前方後円墳。それを横目に眺めながら通る事のできる、日本一古い国道、竹ノ内街
道が貴重だ。
この時期、鴨が渡ってきて賑やかになる。周濠と雄大な墳丘を眺めて通るこの道は大のお気に入りで、そこを抜けたら、
小さくて目立たない軽墓神社がある。そこをお参りする為の毎日の散歩。雄大な歴史を感じるこの地を足で確かめられる今の幸せを思う。
(R4年12月13日 松永典子)
№121 名作の再放送
改めて見るポアロ
「相棒」の再放送と新シリーズが楽しみである。それにも増してクリスティのポアロ。
何回見ても発見や見落としがある。 19世紀後半の天井の高い建物や、通りの人々の様子、馬車、重厚で手の込んだ調度品、
人々の身形やアクセサリー等 どれも溜め息が出るほど素敵。それに、クリスティーの小説は筋がわかっていてもドキド
してしまう。本物のエン ターテインメントは何年たっても古びない。
もっと見たいと思う。どうかまた昔読んで、画面で見たミステリーが放 映されますようにと願う
(R4年10月14日 松永典子)
№120 こんなに暑いのって!
コロナ騒ぎで、感染はしていないのにしばらく何も手につかない状態が続いた。
おまけにこの暑さ!
洗濯ものは取り入れる時、熱いまま。窓は少し開けただけで熱風が来る。スーパーを出たら
眼鏡がくもる。水道からお湯が出る。
老人や弱者にとってはクーラーがなければ
、致死量の熱気だ。この際だからと家中の本の整理や不用品を出しまくった。
個人的には少しすっきりしたが、
米どころでは大雨で水害がでているという。人類滅亡の始まりの始まりか?と疑ってしまう程、世界的に
ゆゆしき問題山積である。
どうか間違いが起きませんようにと祈るばかり。
(R4年8月28日 松永典子)
№119 20代で見た映画「ひまわり」
ソフィアローレン、マルチェロマストロヤンニのゴールデンコンビでの反戦映画だったと記憶している。第二次世界大戦
で引き裂かれたイタリア人夫婦の物語。 ひまわりはウクライナの国花である。ヘンリーマンシーニの美しい哀切な音
楽と共に広大なひまわり畑が、今でも心に残っている。 終戦後も戻ってこない最愛の夫を探して異国の地を探しまわる
妻。夫は戻らぬまま。広大な異国の地の一面のひまわり畑で途方にくれる。ひまわり畑には戻らぬ兵士達が埋まっている
という。引き裂かれた愛は二度と戻らない。ただ光が燦々と降り注いでいるだけ。 キーウの南の話である。ドイツを中心の
諸国とソ連の戦争だったか。奇しくも今、同じ地方での戦が…。人間は学ばないのだろうか。
(R4年4月6日 松永典子)
№118 なつかしい少年少女文学
今、「赤毛のアン」や「名探偵ホームズの冒険」等なつかしい翻訳物語をTVでやっている。
L.Mモンゴメリーの「赤毛のアン」は、カナダの片田舎であるグリーンゲーブルが舞台。孤児院から
男の子と間違われて貰われた女の子が、老兄妹に愛情深く見守られて豊かに育っていく物語。
そして、マークトウェンの「トムソーヤーの冒険」はミズーリ州ハンニバルで少年時代の自伝的小説。
私が、少女時代に読んだこれら翻訳ものは今も古くならないし、残り続けて輝いている。これらには
子供や人に対する深い愛情に溢れていて、どちらも人種差別の激しかったあの時代であったろうに、
全然そんな影が感じられない。人への眼差しがとても温かい。友人のハックルベリーフィンとその仲間
達の話は、上品な社会や文明に対する反発の気分が痛快である。時代に洗い流されない価値観は、現代
でも通用する。というより今の社会が忘れ去ろうとしていたり、軽んじたりする大事な何かがある。
子供達には塾だけではなく、名作に触れる時間を与えてあげたいと、強く思う。
(R4年2月21日 松永典子)
№117 句会あれこれ7(昭和59年1月「沖」新年句会)
初心の頃の句会記録は散逸してしまったが昭和59年1月8日の句会記録が出てきた。参加者72名。3句出句の
3句選。216句の中からの選だから選句も投句もとても厳しい。まして、能村登四郎、林 翔両先生選に
選ばれるのは至難の業。 句が多くて選がばらけるのではと思われがちだが、披講が進むに
連れて、分かり易く収斂されてくる。高点句はすぐに真似される。両先生は、手垢がついている句は
避けて選句されていたので、新旧の弟子達はそれだけでも信頼できたのである。新しい句を出さなければ漏れる。
地方の句会で手応えのあった句を出す人も。けれど、作句態度はすぐわかるし、
結局は息切れしてしまう。皆、高点句より両先生の大丸の方を信頼していた。
大年を使ひ切つたる火を落とす 佐山文子/ ひと蹴りに衣ずれひとつ初蹴鞠 鈴木鷹夫/ 1枚の
晴天引きぬ凧の糸 八木浩二/ そして登四郎特選は 初暦の量感すこし憎みけり 塚越琴雨/ 林翔特選は
大き靴雪の匂ひの客なりき 五十嵐(名前の部分が薄れて不明)
(R4年1月10日 松永典子)
№116 句会あれこれ6
昔からの句会方式では、ベテランの捌く人がいて、全員で無記名投句、無記名選句による互選方式が
一般的で、今も一番多く採用されている。最も民主的で、公平と考えられているからだ。 それでも
欠点があって、みんな同じ位の力だとその流れに乗ってしまって、本当に客観視できているかどうかが、
疑問だ。〇〇風といって、集団の癖みたいなものも現れる。同調圧力も強い。多数決の欠点と、政治的実力者
に引っ張られる提灯付けによる、仲良しこよしの点取りゲームのままで何年も過ぎる事も。 それでも、その
癖の極みがなんとも魅力的な集団もある。鍛錬期間が長くなるとそれぞれが工夫もするし、手分けして
身に着けた独学も披露できる。 あと、今増えているのはステージ式の絶対者による講演バラエティーだ。
余程自信と実力がないと、スター的司会者には中々なれないのだろう。ちょっと違うんじゃないと感じても、意義
の申し立て等すぐにはできない。絶対者になれる人はそうはいないので、ちょっとしたミスは見過ごされてしまう。
それでも自分に合ったそれぞれの方式で、楽しむのも一つの手ではある。
(R3年12月17日 松永典子)
№115 句会あれこれ5
大阪に転勤になった時には、「沖」大阪支部の他に「船団」(のち散会)でも勉強する事になった。
とても自由な雰囲気で、いろんな結社や自由人達のたまり場で、結社俳句の人もいたけれど、無所属の
人も多く、基本がどうかな?と思う事も多々あった。けれど、これでいいのだろうとその自由さを楽しむ事に
した。 その内に請われて読売文化センターの講師を担当する事になった。数年後、会場のセンタービル
そのものが赤字で、スイミング以外の文化系教室が全てなくなった。折角のきらきらした才能の
持ち主達も基本ができる前に、解散となってしまった。紙と鉛筆だけでできる手軽な趣味という印象がある
俳句ではあるけれど、それを維持するには、会場費や用紙代、コピー代、講師料等が掛るのだ。まとめて、冊子に
しようと、計画まで立てていたのが、全てオジャン。どんな趣味であっても、手軽で気軽とはいかないものである。
昨今のコロナ騒ぎで、何が起こるかわからない世の中、何かを続ける事の難しさを身に沁みて感じている。
(R3年10月22日 松永典子)
№114 句会あれこれ4
その後中央句会の他にその地の支部句会に参加するようになり、あちこちにお世話になった。
子育て中での欠席投句が多かったが、地方によってもちょっとした違いがあって楽しかった。作者は
わからないが、「桜餅二つづつ置き席作り」という句が東京句会に出ていた。これなんかは地方の句会
での風景と思われ、全国から投句があった事がわかる。 昔はコピー機も、電子辞書もなく、みんな
手書きで、ノートに写しあっていた。ブロックのような広辞苑を、持ってくる順番を決めていたりしたが、
ある男性がその係をかって出てくれていつも重い思いをしてもらったものだ。
愛知県安城市の時は岡崎に有った沖東海支部にお世話になった。有力な同人が3人もいて、ハイレベル
な句が多く、ここでの体験がとても役に立った。
(R3年10月5日 松永典子)
№113 句会あれこれ3
句会の記録もあちこちに散逸してしまっているが、辛うじて昭和57年㋄9日東京句会録が出てきた。72名参加の216句。
登四郎選に入るのはとても難しい事でもあった。
能村登四郎選特選句は 畦塗つてあつさり父に負けてをり 水上陽三
林 翔特選 出を終へし道化に深き春の椅子
安居正弘
その他大丸として 母の日も母には小さき灯が似合ふ 福井隆子
母の日のおろおろと何探す母 遠藤真砂明
牡丹園出口は息を抜くところ 吉田政江
桐の花気付かずに居るあまたの恩 鈴木節子
稚児ゆりと呼ばれ吉野の水が合ひ 阿部きぬ いま少し汗ばみてよき程の無為 鎌倉佐弓
直言のちりり菖蒲のさら湯かな 北川英子 気位のすこし弛みぬ夕牡丹 小沢克己
起き伏しのやはらかき身も藤の頃 重住秀子 花山葵売る田仕事のひとくぎり 坂巻純子
余り苗きらめく言葉はすぐ滅ぶ 都築智子 捨て苗の青凄慘に月とあり 川口仁志
高点句として 母屋まず大きく映り田水張る 能村研三
(R3年9月15日 松永典子)
№112 句会あれこれ2
「沖」東京句会と、埼玉支部句会に出るようになってから、俳句の奥深さと、とんでもない人数の有力先輩俳人が
いらっしゃるのだと身に染みてわかった。 東京は75名から多い時には100名近い投句者。 埼玉には30名程。
房総にはこれも30名程。東京周辺の地方句会へは、常連さんも沢山いて、毎週土日ごとに、毎回どこかに出席している
猛者も。子育て真っ最中の私は毎週出るわけにはいかず、東京へは八重さんに欠席投句3句と投句料(確か千円だ
ったと思う)を持って行って頂いた。偶には子供を預けて出席したが、多いので清記も早く回ってくる。トイレに
も行けず、隣の人にお願いした事も。 その結果に一喜一憂しながら埼玉の7年間の初心者時代を過ごして、鈴木鷹夫、
久保田博両先生に直接指導を受けながら勉強した。そして夫に二度目の転勤辞令が降りた愛知県安城市へ転居。
沖東海支部へお世話になる事になった。
夏の鳰出合ひといふをけぶらせて 鎌倉佐弓
(R3年9月5日 松永典子)
№111 句会あれこれ
30代前半で始めた俳句ももう40年になってしまった。 夫は転勤族で、東京勤務時代に埼玉で初めての句会を体験。
母が女学校時代から短歌をやっていた関係で、幼い頃は短歌雑誌の表紙の絵で遊んでいたから自分も何か生活の中に文
芸を取り入れた生活をするものだという、朧げな未来を思っていた。実際は、いろんなことに夢中になっていて、取り
掛かりは少し遅れてしまった。短歌は母には敵いそうもないので俳句をやろうと安易な入門だった。 越生というと
ころで牧師さん(俳号は雀の子)の主宰する句会に出るようになった。メンバーはその土地の名士さん達。私が一番若い
ひよっこ。そこに「沖」の同人だった酒本八重さんがいた。いろんな事を教わりとてもお世話になった。 この大先
輩に連れられて行ったところが、百名近い「沖」東京句会だった。それからおっかなびっくりで、本格的にやりはじめた。
馳け足で枯木と星の村になる 塩田章、雀の子
(R3年8月17日 松永典子)
№110 通説の怖さ
通説に埋没する事の違和感を非常に感じている。みんなどうして通説の上に安住しているの?と言いたい。自分の
頭で考え、自分の目で見て判断しないの?と。 SNSは「編集」「校閲」という作業をほとんど経ていない。というよ
り簡単に考えている人があまりにも多い。気軽でいい加減という良さもあるけれど、紙媒体は、デスク・編集者・校
閲者等多くの人の目を通して、吟味。事実確認とか適切な表現かどうか、何段階もの作業を経ている。出来るだけ正
確に近い物、事を伝えようとする心が大事で、互いの意見が違う事を認めあう為にも、調査と吟味が必須だと思うの
だが、影響力のある人の言ったことに迎合してあたかもそれが自分の考えでもあるかのように、振舞ってしまう。
結果、間違った情報や、酷く人を傷つける言葉が拡散してしまう。悪意ある人の術中にまんまと嵌ってしまう事もあ
る。正論という名のみの極論に陥っている事に気づくのはずっと後になってからだろう。間違いは取り消せばすむけ
れど、信頼を取り戻すには時間がかかる。
(R3年7月27日 松永典子)
№109 上野千鶴子さん
社会学者、家族社会学者、フェミニスト、ジェンダー論者、女性学者、東大名誉教授と、今や押しも押されもせぬ
日本の女性学の第一人者である。 「おひとりさまの老後」「ナショナリズムとジェンダー」「在宅ひとり死のススメ」
「女ぎらい」「近代家族の成立と終焉」等著書多数。マスコミにも度々取り上げられている。深くて広い教養の上に立った
観点からの鋭い論点が小気味いい。ヤングケアラーについてや、死に行く人はさびしいか?のテーマでの出版も予定されて
いる。さびしいのではという男性のちゃちゃ入れに対しては、大きなお世話と切り返す。とても自立(自律)した素敵な女性
、否、社会人である。只の上滑りの女性論と違ってしっかりと足が地についたリアリストでもある。その説には空疎な
理屈っぽさや破綻がない。コロナ敗戦やヤング、ヤングでないケアラー等についての講演も説得力がある。
少し自慢もはいるが、坪内稔典氏を通じてお送りした私の第二句集「埠頭まで」の句、「埠頭まで歩いて故郷十三夜」を「
埠頭まで歩いて故郷十三歩」と読んでしまったとのお返事に、もう笑ってしまった。一流の人間はユーモアも一流である。
(R3年6月27日 松永典子)
№108 コロナ禍で巣籠り整理
40年になる俳句歴で、溜った俳誌が、膨大になっていた。コロナ禍での巣籠りは、専ら本の整理の時間
となったが、やってもやっても減らない。時々読みながらの(だから進まないのも当たり前かと、自嘲しながらの)至福の
時間でもあった。 その中に、俳句初学の頃、所属していた俳句月刊誌である「沖」の3週年記念選集と、10周年記念選集
が出て来た。今俳壇で重要な地位について活躍している人々の作品が犇めいていて圧巻である。能村登四郎、林翔両先生
率いる数々の有力俳人に育っていった人達の最初の出発である。俳人協会会長である能村研三氏をはじめ、今瀬剛一、
上谷昌憲、大牧 広、大畑善昭、渡辺 昭、鈴木鷹夫、節子夫妻、波戸岡 旭、正木浩一、正木ゆう子、筑紫磐井、安居正浩、
各氏の他、名前を変えて今も活躍している人達もいる。305名だった会員もたった数年で624名に増えていた。若者であった彼ら
の作品は瑞々しくどれも独創的である。上手くても人真似の句は一つも無い。今の俳句興隆とは違った内容の濃さである。
豊かさとはこういう物をいうのだろう。
(R3年6月7日 松永典子)
№107 貰い猫ねね№141 消息
暫くおやすみしていた連載「貰い猫ねね」の消息はどうなっているの?とある人に尋ねられた。 推定年齢16歳。彼女も
年を取った。暇があれば寝ている。一説によると、寝る子が語源でねことなったという。 子供のいない
息子夫婦が野猫を引き取るボランティア団体から引き取った。 とても可愛がっていたのに、息子の方が、酷い皮膚病を
患い、検査で強い猫アレルギーだという事が判明。仕方なく実家のうちへ連れてきた。まだ子猫だった事もあり、よく遊ぶ
三毛の雌(三毛は殆ど雌だそう)で、絨毯や夫のズボン、段ボール等に悪戯三昧。棚の上に置いてある餌を取ろうと何度も
飛び上がって盗み食いに挑戦したらしく、留守の間に眉間を打って月光仮面の月のような傷を作った。老夫婦の手に余るほどの
イケイケねね様であったが、寄る年波には勝てず、ドドドドッと勢いよく上っていた階段も、よたよたと、一段づつ。
途中で休む。我ら老夫婦を追い越す勢いで衰えてきた。できない事が多くなり、背の哀愁と、すぐに諦めてしまう姿は涙を誘う。
そうなると、増々愛しく、老い比べの仲間意識が強くなり、今では彼女がいない生活は考えられなくなった。長生きしようね。
(R3年5月26日 松永典子)
№106 「古事記」ロス
「古事記」への逍遥。楽しんで下さった方もいらっしゃったようだ。 コロナ騒ぎもあり、何かが終わった寂寥感の
中にいる。 考えてみると、夫の転勤に、九州から関東、中部、関西と転居を繰り返してきた。最終のここ大阪羽曳野市
は、「古事記」ゆかりの地である。ヤマトタケル白鳥伝説が残る白鳥という住所で、白鳥陵のすぐ傍に住む事になった。
今は大物俳人である(ひそかにオオモノヌシノカミと勝手によんでいる)中原道夫氏は私の事を白鳥に住むスワンといって
皮肉ったから、皮肉屋は私の専売特許だからブラックスワンだと言い返したものだ。 近所には、稗田さん、三輪さん
という名の方が住まれている。散歩で少し出ると、応神天皇陵があり、その他雄略、仲哀、履中、安閑、清寧、仁賢各天皇
陵がある。御陵めぐりは半日程でできてしまうのだ。転居してきてからずっと不思議な縁を感じてきた。神に頂いた体と
心をお返しする時も近づいてきている今、偶々「古事記」に触れる機会を得た。まだまだ見落としがあったに違いないのだ。
(R3年5月13日 松永典子)
№105 古事記齧り記53エピローグ(納め口上)
「古事記」の不思議は題の読み方さえ定かではない事。「ふることふみ」という和語読みが相応しいのではないか
という人もいる。 「記序(序文)」は素朴な本文(変体漢文・倭文体)とは趣が異なる格調高い四六駢儷文(し
ろくべんれいぶん)で書かれている。臣安萬侶言(やつこやすまろまを)す。…で始まる言わばダイジェスト版の
ようでもある。 この時代以前に存在した「帝紀」・「旧辞」の調査をし直して舎人の稗田阿礼28才に読み習
わせたとある。 古事記は順番に、原文で全て読む事。それがこの玄妙不可思議の世界をより深く楽しめて、いく
つもの伏線が理解出来るという、言わば文学として捉えていらっしゃる関西医療大学講師南山かおり先生にご
指導を頂いた。古事記おでん説を唱えられている。一つ一つの具(物語)もそれぞれおいしいが、それが一緒に
なった全体の味が得も言われぬ雰囲気を醸しているという。
参考図書・・・津田左右吉著「古事記及び日本書紀の研究」
角川書店「古事記」
歴史読本「古事記の見方・楽しみ方」 同「古事記日本書紀謎の神々」
(R3年4月15日 松永典子)
№104 古事記齧り記52
兄(オケ、後の仁賢天皇)は、弟(ヲケ、後の顕宗天皇)が本当の事を皆の前で歌った勇気により先に弟に即位を勧めた。
父の非業の難の目撃者「置目の老媼」により父の埋められた遺体も見つかり、置目の老媼を宮中に呼び、相応の
褒美を与えた。 困っている時に食糧を奪った一族を末代まで祟る罰を与えた。 こうして、皇位継承は殺戮に
よらず、(倍返しだ!などの憎しみの連鎖?)話し合いや合理的な順位や譲合いで決めるという下地ができた。
これより後の推古天皇までは、主な物語はなく、生年、即位年、即位場所、崩御年のみの記述となる。
長い長い「古事記」の物語も、乱世を治める為の勇猛果敢な雄略で終わるのではなく、仁徳以来の、二人の賢帝での
結びとなっている。
昭和54年奈良市の農家の茶畑で、「太安万侶」の名が刻まれた銅板と人骨が見つかった。
従四位下、勲五等の位階をもつ太朝臣安万侶が、癸亥年七月六日に卒之(しゅっす。死んだ。)そして養老七年
(七二三)十二月十五日に埋葬したと、書いてあった。安万侶は実在したのである。
(R3年4月7日 松永典子)
№103 古事記齧り記51
お互いに譲り合いながらの二人の歌によると、八絃の琴を奏でるように、天下を調え、お治めになった伊耶本和気
(いざほわけ、後の履中天皇)の御子・市辺之押歯王(いちのへのおしはのみこ)の、今は奴(やっこ)となった子孫です、
私達はー。と。 すると小楯連(おだてのむらじ)は、これを聞いて驚き、床から転げ落ち、その部屋にいた人々を
外に出して、その二柱の皇子を、左右の膝にお乗せし、その身の上を泣き悲しんで、人民(おほみたから)を集めて
仮宮を造った。そして早馬の使者をその叔母・飯豊王(いひどよのみこ)に貢上したところ王は喜んでに皇子を角刺宮
(つのさしのみや)に登らせた。 かく見い出された二皇子「意富祁命(おほけのみこと、後の仁賢天皇)」と、
その弟「袁祁命(をけのみこと、後の顕宗天皇)」こそ、皮肉にも雄略によって排除謀殺された市辺之押歯王の忘れ
形見であった。
(R3年4月1日 松永典子)
№102 古事記齧り記50
大王の器量を持った雄略の世の繁栄もライバルの皇子達を次々に排除した結果である事が皇統の危機を招く事になる。
雄略の御子白髪大倭根子命(しらかのおほやまとねこのみこと)が磐余(いわれ)の甕栗宮(みかくりのみや)
にて天下を治めたが、皇后も御子もなく、崩った後には治めるべき王が無かった。 そこで、市辺之忍歯別王
(雄略のいとこ。狩で殺された。)の妹、忍海郎女(おしぬみのいらつめ、)またの名は飯豊王(いひどよのみこ)
を葛城の忍海の高木角刺宮にお迎えして当面の空白を任された。 山部連小楯が針間国の宰に任じた時、その国
の志自牟(しじむ)が酒宴を催し、竈の火を焚く少年二人がいて、歌い舞わせた。お互いに譲りあいながらの歌が
とんでもない内容だった。
(R3年3月15日 松永典子)
№101 古事記齧り記49 (R3/3/1)
三重の采女の歌に続き、大后は歌う。 大和のこの高市(たけち)に、新嘗の御殿の側に生い立つ葉広の神聖な
椿。その葉のようにゆったりとしていらっしゃり、その花のように照り輝いていらっしゃる日の神の御子よ、お酒を
召し上がりませ。語り伝えでもこの事を同じように伝えています。 対し、天皇もすぐに歌って言うには、百磯城
(ももしき)の大宮人達は、鶉のように領巾(ひれ)をかけて、鶺鴒(せきれい)が尾を振るように、長い裾を引いて
行き交い、雀のように大勢群がり集まって、今日も酒盛りしているらしい、高か光る日の宮人たちは。語り伝えでも
この事を伝えています。(天語り歌) 仁徳朝の大后イハノヒメの「大君賛美」の歌詞を踏襲したもの。
雄略こそが、正統の仁徳皇統後継者であるとの「言挙げ」である。
(R3年3月1日 松永典子)
№100 古事記齧り記48(R3/2/14)
「纏向の日代の宮」は、景行天皇の宮で、ヤマトタケルの時代、古き良き御世の「新嘗屋(にひなへや)」には、
大きな槻の木が生えていた。 その記憶が今、雄略の長谷の宮の「百枝槻」に重ねられ、いにしえの繁栄を
引き継ぐ瑞祥として、「枝の末葉」が、この三重の采女の捧げる「大盃」に散り落ちましたと、言いなした
のである。 天初の頃の「国、稚(わか)く浮ける脂(あぶら)の如くして、くらげなすただよへる時」
を連想させて、イザナキ、イザナミの国生みの際、天の沼矛(ぬほこ)で「水こをろこをろに掻き鳴した」
という、神話の記憶をも想起させる。これまでの神話で物語られてきた記憶を重層させながら雄略を褒め
たたえた。 神々から受け継がれたこの国「天の下」の雄略が正統な継承者である証がこの現象であると
いうのである。
そして、大后もこれに唱和して、雄略を讃える歌をうたったのである。
(R3年2月14日 松永典子)
№99 古事記齧り記47 R3/2/1
采女が雄略天皇に、申し上げる事がありますと、歌って言うには、 纏向(まきむく)の日代(ひしろ)の宮は、
朝日が照る宮、夕日が光り輝く宮、竹の根が十分に張り、根がしっかりと長く延びている宮、真木栄(まきさ)く
檜造りの宮、新嘗屋(にひなへや、神事を行う宮殿)に生い立つ、茂った槻(つき)の枝は、天を覆い、中は東
(あづま)を覆い、下枝は鄙(ひな)を覆っております。わが君のこの宮の槻も同じです。その上の枝先の葉は、
中の枝葉に落ち触れ、下枝の葉は、(在り衣の)三重の采女が捧げる立派な杯に浮いた脂のように落ちて浸り漂い、
水をこおろこおろとかき鳴らしてできた島(天地創造の時の神話を想起させる)のように浮かんでおります。
これこそまことに恐れ多い事でございます。(高光る)日の神の御子(ヤマトタケルと仁徳にしか使われていない。
)よ。語り伝えでも同様に伝えています。と。 天皇は采女のこの懸命の事挙げにあっさりと剣を収めた。
(R3年2月1日 松永典子)
№98 古事記齧り記46 R3/1/15
天皇(すめらみこと、雄略)が丸邇之佐都紀臣(わにのさつきのおみ)の娘、袁杼比売(をどひめ)に婚(あ
)はむとして、春日に幸行(いでま)しになった時に、その娘に道でばったり会った。娘はそれを見て岡辺に逃げ
隠れた。 それで、天皇は御歌を作った。その歌に曰く、乙女が逃げ隠れている岡を、金鉏(かなすき)の
五百丁もあればよいがなあ、鉏き取ってはね取ってしまおうものを。と。 それでその岡を名付けて金鉏岡
(かなすきのおか)という。 又、天皇が長谷(はつせ)の枝の茂った槻の木の下にいらっしゃって豊楽
(とよのあかり、酒宴)を為(せ)し時に、伊勢国の三重の采女が大御杯を捧げ持って天皇に献った。
すると百枝(生い茂った)槻の葉が落ちて盃に浮いた。采女は気が付かず献上。天皇が采女を斬ろうとした時、采女は
「曰(まう)すべき事があります。」と言って歌い出した。
(R3年1月15日 松永典子)
№97 古事記齧り記45
天皇は「名を名乗れ。」と言った。相手は「私は何でも一言できっぱり言い放つ神、葛城之一言主大神
(かつらぎのひとことぬしのおほかみ)である。」と。 天皇は恐れ畏まり、「恐れ多い事です。わが大神よ。
私は人の身、貴方が神である事に気付きませんでした。」と申し、百官(ももつかさ)の服を脱がせ、拝礼して
献上した。一言主は喜び、長谷の山の入口まで天皇を送って行った。 普段は、女性には優しいものの、誰に
対しても力を誇示するオレサマ的雄略も、神たる存在に畏敬の念を以て、敬虔に祀った。大王の威厳を保ち
つつも決して「神」の領域を侵さない。神にも一目置かれる天皇として認められ、乱世の安寧を保証する事にも
なった。厳つい風体、最高の威圧感で圧倒していても、自分が間違っていたと気づいたり、女性の事挙げに耳を
傾けたりと、案外素直な所もあり憎めない。
(R3年1月1日 松永典子)
№96 古事記齧り記44
またある時、天皇が吉野の離宮に行幸の時、吉野川の辺にいた美しい乙女を見染め、婚(めあい)てから
朝倉の宮に還られた。 次に吉野に幸行した時に、その乙女と遇い、留めの大御呉床(おほみあぐら)
を立てて、琴を弾き、舞を為(せ)しめた。乙女の見事な琴や舞に御歌を作り、曰く、神の御手で弾くか
と思える琴に、舞する乙女、常世にいつ迄も留めたい姿であれよ。と。 またある時、天皇が葛城山
に登られた時、百官(ももつかさ)の人達はみな紅紐に青摺りの衣服を給わりて着ていた。 すると
向いの山裾から、天皇の列と、人数や服まで全く一緒の一団が来た。天皇が、「この大和に、私の他に、
王はいないのに、あれらは誰なのだ。」と尋ねさせたら、向こうも同じ事を言った。天皇は怒って弓矢
を番えて構えると、向こうも同じように矢を番え構えた。
(R2年12月15日 松永典子)
№95 古事記齧り記43
またある時、天皇がお出かけの際に美和(三輪)河に着いた所、河の辺で衣服を洗っていたとても美し
い乙女を見染め、誰の娘かと尋ねられた。「私の名は引田部赤猪子(ひけたべのあかいこ)と申します」
と答えた。天皇は「嫁がずにいるがよい。まもなく宮中に召そう」と仰せられてそのまま帰られた。
待つうちに八十年経ち、すっかり老いさらばえてしまった。もはやあきらめていたものの、この真心を
何とかお伝えしたいと、献上物を持って参内した。 天皇はその事をすっかり忘れていた。「おまえ
が志を守り、召しを待って虚しく娘盛りを過ごしてしまった事はまことに愛しく不憫である。」と、四首
の歌を歌って多くの賜物をその老女にあたえられた。 現代人にとっては、それはないだろうと思う
ところだが、大王の身で、あ、忘れてたごめんごめんと、あっさり認めるところは、怒りを通り越して
笑ってしまうしかないだろう。
(R2年11月30日 松永典子)
№94 古事記齧り記42
皇后が日下にいらっしゃった時、雄略天皇は、直越えの道より河内に出られた。その時、鰹木(権威の象徴)
を備えた家があり、「あの鰹木を上げた家は誰の家か」と問われた。「志幾の大県主の家です」と。「天皇の
御殿に似せて造るとはけしからん。焼かせよ」と仰せられた。 大県主は恐れ畏まって「卑しい下僕の事
とて身分をわきまえず、誤って造ったのは恐れ多い事です。奉納物を献上しますのでお許し下さい」と、申し、
布を白い犬に掛け鈴を付けて、腰佩(こしはき)と言う人に犬の綱を取らせ、献った。 天皇はあっさり
焼くのを止めさせ、そのまま若日下部王(わかくさかべのみこ)にその犬をご下賜になり、「これは珍しい
もの。求婚の贈物とする。」と。(ん?たらい回し?)いまだ共寝する事はないが、後にはきっと抱き合っ
て共寝しようぞ。愛しい妻よ。ああ。と、歌って使者を遣わせた。
(R2年11月15日 松永典子)
№93 古事記齧り記41
近江の佐々木山君(ササキヤマノキミ)の祖先で名を韓袋(カラフクロ)が、近江の久多綿の蚊屋野には、
猪や鹿がたくさんいて、足が莪(ウハギ)の原のように林立していて、角は枯松林のようですと申し上げた。
そこで大長谷王子(オホハツセノミコ)は市辺之忍歯王(イチノヘノオシハノミコ)と出かけて一泊した。
忍歯王は日の出はまだなのに、「夜はすっかり明けました。狩場にお出ましあれ。」と迎せられた。
側人が「どうも変です。お気を付けください。武装なさった方がいいのでは」と申し上げると、大長谷王は
即座に弓矢と鎧を下に着けて馬で後を追い、その忍歯王を射落とし、遺体を斬って馬の飼葉桶に入れ、地面
と同じ高さに埋めた。 この事件を聞いた市辺王の王子達、意祁王(おけのみこ)と袁祁王(をけのみこ)
は山城の刈羽井まで逃げた。山城の猪飼いという老人に会ってここも大長谷の力が及んでいると知りもっと
遠くへ逃げ、身分をかくして(天皇の孫という)馬飼い、牛飼いの牧童として働いた。
(R2年11月1日 松永典子)
№92 古事記齧り記40
いよいよ大王雄略天皇(大長谷命、ワカタケル)の登場である。埼玉稲荷山古墳から出土した鉄剣には
「若建命(ワカタケルノミコト)」と読める文字が見える。大和政権は関東にまで及んでいたといえそうだ。
ライバルを次々に倒していきながら国の乱れを平定したワカタケル。少々乱暴であったが、倭建命
(ヤマトタケル、ヤマトヲグナノミコト)に匹敵するような童男(をぐな)といわれた。少年であるが故、
目的達成にまっすぐで無垢な荒々しさは、乱世には必要とされ、無鉄砲な力強さは不可欠であった。
どこか憎めない乱暴者とでもいえそうだ。
万葉集巻頭の歌は雄略天皇のプロポーズいわば、ナンパの歌である。そして、宋書に見える倭(わ)
の五王の中の武(ぶ)に比定されている。
(R2年10月15日 松永典子)
№91 古事記齧り記39
7歳の目弱王(まよわのみこ)による安康天皇殺害事件を聞いて、その同母弟である大長谷王子
(おほはつせのみこ、後の雄略天皇)は、人が天皇を殺すとはと、憤慨して兄の黒日子王(くろひこのみこ)
に相談に行ったが、ぼんやりと気にもかけない様子に、その襟首をつかみ引きずり出して殺した。もう一人の兄、
白日古王(しろひこのみこ)も同様の反応を示したので、飛鳥の小治田にて穴を掘り立たせて腰まで埋めた。
その時に二つの目玉が飛び出して死んでしまった。 大長谷王は都良意美(つぶらおほみ)に軍勢を向け
その家を取り囲み、「私が言い交した乙女はいるか」と問うた。都良意美は「求婚なされた吾が娘、
訶良比売(からひめ)はあなた様にお仕えします。五箇所の三宅を添えて献上いたしましょう。しかし
身分の低い私を頼って逃げていらっした王子の事は死んでも見捨てられません。」と言って、戦い続けたが、
遂に力も武器も尽きてしまった。王子は「もういい、私を殺せ」と仰せられた。つぶらおほみは王子を殺し、
直ちに自分の首を斬った。
(R2年10月5日 松永典子)
№90 古事記齧り記38
根臣(ねのおみ)の讒言(ざんげん)により身に覚えのない罪をきせられた大日下王を殺してその妻を
奪ってしまった、穴穂御子(安康天皇)は神牀(かむどこ)に坐して夢の中での神託を請う為に昼寝に
入ろうとした時、皇后に思う所あるかと聞くと「その後の天皇の敦き沢(めぐみ)を被(かが)ふれば、
何の思う事がありましょう」と答えた。 が、その子(殺された大日下王と皇后の間の)目弱王
(まよわのみこ、7歳)が、宮殿の下で遊んでいて、新しい父がその子の父王を殺した事を知り、
天皇の寝ている時を伺い、置いてあった大刀で安康天皇の首を討ち斬って、都夫良意富美
(つぶらおほみ)の家に逃げ入った。天皇の御歳は伍拾陸歳(いとせあまりむとせ、56歳)、
御陵は、菅原の伏見の岡に在る。
(R2年9月15日 松永典子)
№89 古事記齧り記37
軽太子の失脚で即位した穴穂御子(安康天皇)は、石上(いそのかみ)の穴穂宮にて天下を治めた。 天皇は、
同母弟(いろど)大長谷王子(おほはつせのみこ、後の雄略天皇)の為に、坂本臣(さかもとのおみ)らの祖、根臣
(ねのおみ)を、大日下王(おほくさかのみこ)のもとに遣わし、 「あなたの妹、若日下王(わかくさのみこ)を
大長谷王子に婚(あ)わせむと思う。」と伝えさせた。 大日下王は喜び、「このような勅命があろうかと、
妹を外にも出さずに大事に育てました。勅命に従ひ差し上げましょう。」と、贈り物として、押木の玉蘰
(たまかづら)を根臣に持たせて献上した。 ところが根臣は、それらを盗み取った上に、大日下臣を讒言
(ざんげん)して「『大日下王は、勅命を受けずに、等しき族(うから)の下席(したむしろ)とさせはしない』
とおっしゃった。」と嘘をついた。天皇は大いに怨み、大日下王を殺して、その正妻、長田大郎女を奪っ
て自分の皇后とした。
(R2年8月30日 松永典子)
№88 古事記齧り記36
日嗣の御子であったのに、地位を捨てて実妹との不倫の恋に生きた軽太子は、その軽大郎女
(衣通王、そとほりのみこ)と数々の恋の名歌を残して心中をした。 古事記後半は必ずしも
天皇礼賛の立場を取っていない。(その要素もあるのも事実だが)天皇も人の子、地位がある故に
苦悩も多い。悪い事をしているつもりは無いのに、つきあげにあったり、声の大きい側近や
ライバルの悪意のある同調圧力により人心から孤立をしたりと、現代人のような悩みもあったようだ。
人心が全て弟の穴穂御子についたら、あっと言う間に穴穂が即位した。(安康天皇) 太子で
即位しなかったのは、ヤマトタケルとこの軽太子だけである。倭し麗しと歌ったヤマトタケルは思国
歌(くにしのひうた)を歌って無念を表したが、軽太子は国偲ぶけれど吾が思う妻の為なら恋しい倭を
捨てても構わないと歌った。
(R2年8月14日 松永典子)
№87 古事記齧り記35
実の妹との不倫スキャンダルを起こした木梨之軽太子(きなしのかるのおほみこ)は大前小前宿禰大臣(おほま
へをまへのすくねのおほおみ)の家に逃げ入り兵器を備えた。その時銅の矢を作った。(号(なづ)けて軽の箭(や)
と謂う)。百官と天の下の人等がみな味方についた穴穂王子(あなほのみこ)も亦、兵器を作った。これは最新の
鉄の箭である。穴穂箭(あなほのや)と謂う。穴穂王子は軍を進めて家を囲んだ。その時大氷雨(おおひさめ、雹)
が零(ふ)った。
太子をかくまっていた大前小前宿禰は踊りながらでてきて、穴穂御子に申し上げるには、「我らが天皇となる
べき御子よ、同母兄である太子に兵を向けては、結局、人はあなた様の事を笑うでしょう。私が太子を捕らえ
て引き渡しましょう。」と言って観念した太子を引き渡した。 穴穂王子は安康天皇となり、軽太子は伊
余湯(いよのゆ)に流された。実の妹である軽大郎女(かるのおほいらつめ)は太子を慕う歌を幾たびも返して、
なお恋い慕う思いに耐えかねて伊余まで追っていった。二人は喜びの歌を歌いそのまま共に自害なさった。
(R2年8月1日 松永典子)
№86 古事記齧り記34
允恭天皇は応神天皇の孫女(まごむすめ)、忍坂之大中津比売(おしさかのおほなかつひめ)を娶り、5柱(いつはしら)の
男御子と4柱の女御子(おみなみこ)を生んだ。その中で天皇となったのは穴穂命(あなほのみこと、安康)と、
大長谷命(おほはつせのみこと、雄略)である。 允恭は70歳甲午の年に崩御した。 その時の遺言で、
兄弟の中の木梨之軽太子(きなしのかるのおおみこ)を日嗣(ひつぎ)と定めていたが、太子はまだ即位しない
内に同母妹、軽大郎女(かるのおほいらつめ)を姦(をか)し、大っぴらに密通。大胆な恋の歌を歌った。 当時、
異母妹ではなく、同母妹と通じる事は、とんでもない事であって一番の不倫と言われ、人心がすっかり離れて
しまった。 百官(もものつかさ)と天の下の人達は皆、軽の太子に背いて穴穂命についた。
(R2年7月14日 松永典子)
№85 古事記齧り記33
反正天皇の弟、男浅津間若子宿禰王(をあさつまわくごのすくねのみこ=允恭天皇)は、遠飛鳥宮にて天の下
を治めた。 初め皇位を継ぐ段に、「私には長い病いがある。継ぐことはできまい。」とおっしゃった
が、皇后や臣下達が、強く申し上げて、ようやく即位された。 即位のお祝いに新羅の国王が船八十一
膄の貢物を献上した際、薬に詳しい大使、金波鎭漢紀武(こむはちにかにきむ)という人が、天皇の病を治し
て差し上げた。 その後、天皇は成りすましなど、いい加減になっていた氏姓が正しくなるよう、甘樫
丘の言八十禍津日前(ことやそかつひのさき)に、盟神探湯(くかたち)をする為の釜をすえ、官人達の氏姓を
正しくした。(神に誓って、熱湯の中に手を入れさせ、火傷をするかどうかで、事の正邪を判断する)
人一倍生真面目で几帳面な性格の允恭天皇の治世は平穏に過ぎたが、その崩御の後に思いも寄らぬ
大事件が起こるのである。
(R2年7月5日 松永典子)
№84 古事記齧り記32
二番目の弟墨江中王に殺されそうになり、すっかり人間不信になった大江之伊耶本和気命(オホエノ
イザホワケノミコト、履中天皇)に、
目通りする為に、天皇が出した条件である墨江中王を殺せという命題を果たした三番目の弟、水歯別命
(ミズハワケノミコト)(後の反正天皇)は、身長9尺2寸(180㎝)。歯の長さ1寸。上下等しく斉(ととの)いて、
珠に貫けるような
美しさであった。 同母兄弟間で起きた謀反事件。「信」と「義」との間で苦悩するが「信、まこと」
こそが君臣間の基本とされていて、隼人ソバカリを騙した形でひと思いに切り捨てられなかった心の葛藤が
「今日」ではなく「明日」行くという事に。2つの(近つ)(遠つ)飛鳥(明日香)の地名のもととなった。
兄天皇の信頼はそういう形でしか得られなかったのである。
(R2年6月15日 松永典子)
№83 古事記齧り記31
主人を殺した曾婆訶理(ソバカリ)を連れ大和に幸(いでま)す時に大阪山の入口で水歯別命(ミズハワケノミコト)
が考えるに、ソバカリは私の為には大きな功績があるけれども、自分の主君を殺した事には変わりない。これは
臣下としての忠義に反してもいる。しかし、その功績に報いないのは、主君としての信義にもとる。約束通りに
完全にその信義を実行すれば、今度は自分がソバカリの粗暴な性情を恐れる事になろう。故、その功績には報い
るとしてもその身は滅ぼさねばと考えた。 そこで、ソバカリに、「今日はここに泊って、まずお前に大臣
の位を授け、明日上る事にしよう。と伝えた。早速仮宮を作りすぐに、酒宴を催し、大臣の位を授け、多くの宮
人たちに拝礼させた。 ソバカリは喜んで、一生の志を遂げたと思った。ミズハワケは、ソバカリに今日は
大臣と同じ杯の酒を飲もうと仰せられ、顔が隠れる位の大杯を傾けた時その首を切った。翌日大和へ。 その地
を名付けて近つ飛鳥(明日香)という。今日ここに泊り禊をして、明日神宮へ、拝礼しようと、言われ、その地を
遠つ飛鳥という。仰せの任務を果たして参上しましたと奏上させて、やっと天皇への拝謁が適った。人を信じる
事の出来ない悲劇である。
(R2年5月31日 松永典子)
№82 古事記齧り記30
2番目の弟に殺されそうになった履中天皇は、石上神宮に避難したが、この時、天皇の三番目の同母弟
(いろど。それはそうだ、母イワノヒメは側女を全部追い出したのだから母は全部イワノヒメ)である水歯別命
(ミズハワケノミコト)が、拝謁を申し入れたが、お前も墨江中王と同じ心ではないのかと疑い、会わないと
言われた。ミズハワケが「私には反逆心など有りません」と答えた。天皇は、「それならば、今すぐ難波の墨江中王を、
殺して戻れば信用しよう」と、申し渡した。
ミズハワケは、ただちに墨江中王に近習している隼人(はやと、海幸彦の子孫)、名は曾婆加理(ソバカリ)に
「もしお前が私に従うなら、私が天皇となった時、お前を大臣にするが、どうだ。」と唆した。ソバカリは
沢山の褒美を受け取り「仰せのとおりに」と答えた。「それならば、お前の主君を殺せ。」とおっしゃった。
ソバカリは、主人の墨江中王が厠に入る処を矛で刺し殺した。
(R2年5月14日 松永典子)
№81 古事記齧り記29
仁徳崩御の後の世は、その同母子三人が、即位する事になる。この辺りから神がかり的な逸話は急減し、現実の
人の世の苦悩や権力争いの厳しさ等が顕著になり、古事記は単に天皇の正統性を伝えるだけのものではないと
いう事が判ってくる。 まづ、伊耶本和気王(いざほわけのみこ、履中天皇)が、若桜宮(わかさくらのみや)
にて天の下を治めた。 初めは、父皇の難波宮にいらっしゃったのが、大甞祭の酒宴で、酔い潰れた天皇を
殺そうと、弟の墨江中王(スミノエノナカツミコ)が大殿に火を付けた。 この時、阿知値(アチノアタヒ)が
天皇を救い、大和にお連れした。 多治比野(たじひの)で目覚めた天皇は「ここはどこか」と問い、
墨江中王が火を付けて酔っている間に逃げてきた事を知った。 大阪の山の入口で会った乙女が「武装した人々
がこの山を塞いでいます、当麻道(たぎまち)から迂回しておいでになるのが良いでしょう。」と進言
した。その後、天皇は石上神宮(いそのかみじんぐう)に入られた。
(R2年4月29日 松永典子)
№80 古事記齧り記28
応神バブルが弾けて不景気となった世を、公共事業や、税の減免で立て直した仁徳は、聖帝(ひじりのみかど)と
呼ばれ、その善政を讃えられた。 仁徳はどの人にも優しかった。時として、その事が廻りを傷つけて
しまう事もある。 メドリとハヤブサの物語の中で、「仁徳ではなく、貴方様と結婚します。」と言い
放った女鳥(メドリ)は、ニワトリ。いわば飼育鳥で、餌はたっぷり、ヌクヌクと育った世間知らずのお嬢様。
ハヤブサは敏捷ではしっこい。大雀(オホサザキ、雀やミソサザイのような小さな鳥等に比定される。)仁徳は、
人がいい。前編は、それが引き起こした事件と言えそうだ。 後に天皇の為の酒宴の開かれた日女島(ひめしま)で、
雁が卵を産んだ。年配で物知りの建内宿禰(400歳?襲名という説も)に聞くと、雁はここではなく渡った異国で産
卵するもの、貴方様のご子孫がこの後末永く国を治められるという瑞兆ですと歌った。天皇の個人的な事件がこ
うしてまた一つの伝説となった
。仁徳天皇は捌拾参歳(やそとせあまりみとせ)(丁卯年)(427年)の8月15日に崩(さ)りましきとある。
御陵は毛受(もず)の耳原。奇しくも百舌、鳥の名である。 (R2年4月14日 松永典子)
№79 古事記齧り記27
天皇は、弟の速総別(ハヤブサワケノミコ)を媒(なかびと)として、庶妹(ままいも、異母妹)女鳥王(メドリノミコ)
を乞うた。 メドリは「大后イワノヒメがあまりにも強いので八田若郎女をお納めにならなかった。故(かれ)、仕へ
奉らず。貴方様の妻になります。」と、そのままハヤブサワケと結婚してしまった。 天皇は、自ら出向き、
機を織っているメドリに、誰の物を織っているのだと、お尋ねになると、「速総別のものです。」と答えた。
それを聞いて天皇は帰ったが、(ここが、優しい(優柔不断ともいう)所だが)、更にメドリは「天高く行く隼を御名
に負うハヤブサワケよ、雀(サザキ、仁徳)なんか取っておしまいなさいませ。」と歌った。それを知った天皇
は、将軍山部大楯連(ヤマベノオオムラジ)指揮の軍を送り、二人は殺された。ムラジは、メドリの腕の玉釧
(タマクシロ)を盗り、妻に与えた。 宮中酒宴の時、イワノヒメは、将軍の妻の玉釧はメドリのものと見破り、
「天皇への不敬があったとはいえ、ひと時は主だった者、まだ温かいであったろう死体から剥ぎ取って妻に与える
とは」と怒り、将軍はただちに死刑となった。
(R2年4月1日 松永典子)
№78 古事記齧り記26
更に、お遣いの口子臣(クチコノオミ)は、皇后に天皇の御歌を申し上げるに、大雨の中を聞こうとされ
ない大后に、紅の紐が青い衣を赤に変える程平伏してもなお申し上げようとした。大后に仕えていたクチ
コノオミの妹、口日売(クチヒメ)がとりなしてやっとご機嫌を直してもらった。 口子臣と口日売
とヌリノミと三人で議(はか)り、天皇に秦さしめて「大后の幸行せる所以はヌリノミが飼う、有る時は飛び、
有る時は這い、有る時は殻(かいこ)となる奇異(あや)しき虫を調査に行かれたのです。」と申し上げた。
天皇は、その奇異しき虫を見に行こうと大勢のお供を引き連れ幸行した。そして、「蚕、蚕と言い立てる
ものだから、桑が一面に枝を張るようにこんなに大勢でやってきたのだよ。(何さすねんな、お前と言った
ところか)」とお歌いになった。 (イワノヒメのこの事件は、皇后のお仕事の象徴としての絹織物
(狩猟採取文化)が、大和民俗の農耕文化との融合が出来て代表的産業となったと言えそうである。)
お手付きの八田若郎女(ヤタノワカイラツメ)は子を産まなかった。天皇は、恋しい八田若郎女に、
子を持たない事は淋しいだろう、可惜清し女(あたらすがしめ、惜しい清き女性だ)と歌い、御名代(みなしろ、
領地のような物)として八田部を定めた。
(R2年3月11日 松永典子)
№77 古事記齧り記25
皇后イワノヒメが、大御食(おほみけ、酒宴)の為の御綱柏(みつながしわ)を採りに木国(熊野)に幸行した間に
天皇は、八田若郎女(ヤタノワカイラツメ)を宮中に召して昼夜戯れ遊んだが、それを聞いた皇后は嫉妬(うなはり
ねたみ)すること甚だしく、御船に載せた柏を悉く海に投げ棄てた。その様子で、この辺りを葉(かしわ)の済
(わたり)という。 皇后は高津宮には入らず、山城国へ川を上って、大和を越え、奈良山の入り口にお着き
になり、今見たいと思う国は、その先にある葛城の高宮、私の実家ですと歌ったが、思い留まって、渡来人の
奴理能美(ヌリノミ)という人の家に入った。決裂が決定的になる寸前で(理性で)踏みとどまるのである。天皇
は皇后が山城から大和へ上ったとお聞きになり、鳥山という舎人(とねり)を遣わして、「皇后は山城女が木鍬で
作った大根のように白い腕を枕として、共寝した仲ではないか、心だけでも互いに思わずにいられないだろう」
と、お歌いになった。そして鳥山よ、い及(し)け、い及(し)け(山城で追いつけ急げ)愛しい妻に追いついてく
れ、と歌った。
(R2年3月1日 松永典子)
№76 古事記齧り記24
応神までの、神の助力で成った天の下は、仁徳の、知力と自力でのインフラ整備を成し遂げるまでの成功譚に移る。
古事記固有の脈絡があり、ストーリー・意図がある。神意は人の手に委ねられ、天皇も、皇后も人の気持を持っている。
仁徳は天皇としては優れた器であったが、私生活はどうかという問題。大后(おほきさき)は功績のあった
将軍(葛城曾都毘古)の娘、石之日売命イワノヒメノミコト。その嫉妬にあって帰ってしまった吉備の黒日売を追って、
国見のついでに(どっちがついでだか)吉備に幸行した。 天皇なのに、黒日売のおもてなしの為の高菜摘みに畑へ
付き合ったりして、楽しいひと時を過ごした。 倭に天皇が帰ると、大和へ帰るお方は、誰よりも心を通わせた
私の夫です。と歌った。 気の強い妻と気の多い夫。このままですむのだろうか。さて…。
(R2年2月13日 松永典子)
№75 古事記齧り記23
大坂の大治水工事を終え、税制やインフラが整った頃、高きに登り、国見をした天皇は、「炊煙が立っていない、
国皆貧し。故(かれ)、今より三年、人民(おほみたから)の課役(えつき)を除け」と、のりたまいた。宮殿は破れ壊
れて、雨漏れども凾で受け、漏らぬ所に遷り避(さ)った。その後、国を見ると烟に満ちていたので課役を科した。之
より百姓(おほみたから)は富み、称えて聖帝(ひじりのみかど)の世という。 ところが…。難波の治水は
修めたもののその後、妻の嫉妬に悩まされる事になる。気位高く、嫉妬深い妻の心を収める事は至難の業である。
吉備の海部直(あまべのあたひ)の女、黒日売(くろひめ)を妾(つま)に喚(め)し上げたが、大后(おほきさき)の
嫉妬に遭い、国に返されてしまった。 天皇は黒日売恋しさに大后を欺き淡路島に国見へ行くといって出た。
国見歌で、難波から、淡島・淤能碁呂島といった神代の国生みを思わせるものから視界に入らない遠方に至るまで
、時空を超えて我が国とした予祝の寿歌を格調高く歌った。仁徳は誰に対しても優しかった。(韓国ドラマが示
すように、男が誰にでも優しいという事は周りを傷つける一面もある。事件の匂はしないか?)
(R2年1月31日 松永典子)
№74 古事記齧り記22
秋山の神(兄)と春山の神(弟)が、賭けをした。絶対に靡かないと言われる伊豆志袁登売神(イズシヲトメノカミ)
を弟が娶れるかどうか。弟は母に知恵を借りて見事娶った。兄は約束の身代身ぐるみと身丈の甕で醸した酒を払わな
かった。母に言ったら(いつの世も弟は言いつけるものだ。)「そんな、人の振舞いなんぞでどうする。神なら神の
振舞いを見習うべき。」と言って呪詛で懲らしめた。「神うれづく」(神かけての賭け事)と言う言葉の起りである。
完成された「天の下」は神の手を離れ、愈々天皇一身の手に委ねられる。不条理や不具合が出る「人の世」を統べ
治めるべく、「聖帝」と呼ばれる仁徳天皇が登場した。 葛城之曾都毘古(カツラギノソツビコ)が女(ムスメ)、
石之日売命(イハノヒメノミコト)を大后に迎え、六柱の王(ミコ)を育て、3代の皇ミコトを輩出した。 父王
に仕えた部(ベ)の秦人(ハタビト)や鉄器等最新技術を使って難波の大治水工事を完成した。茨田(マムタ)の堤、
マムタの三宅、丸邇(ワニ)の池、依網(ヨサミノ)池を作り、難波の堀江を掘り、海に通し、小椅の江を掘り、墨の
江の津を定めた。渡来人とその技術を駆使した難工事で、大阪の町と港の整備に力を注いだ。
(R2年1月11日 松永典子)
№73 古事記齧り記21
神の加護を受けて、天の下は代々の天皇達が国の礎を築き、応神でほぼ完成を見た。ここまでで古事記の中巻が
終る。後継者には、弟の宇遅能和紀郎子(ウチノワキイラツコ)を、大山守命(オホヤマモリノミコト)には「山海
の政(まつりごと)」を、大雀命(オホサザキ)には「食国(をすくに)の政」を分担するよう言い残し130歳で崩御
した。 大雀命は応神の意向通りに天下を弟王イラツコの物として振舞ったが、兄の大山守命は世継ぎの
弟を殺そうと攻撃の準備をした。気付いた大雀命は弟王にそれを知らせた。 弟王は舟の舵取りに化けて、
攻撃しようとした兄を水の中に落し、川から出られないよう謀った。沈んだ兄を引き上げる時「カワラ」と鳴っ
た。その地を訶和羅之前(かわらのさき)という。宇治川の渡し場に立つ梓弓(檀の木)を印に切ろうと思うけれど
父王や妹達の事を思い出し、心痛く、切らずに来たと歌って、遺体を那良山に葬った。 ウジノワキイラ
ツコは大雀の誠実さに天下を譲ろうとしたが、互いに譲り合ったまま長い時が経ちイラツコが先に崩御してしま
った。結局、大雀命(後の仁徳天皇)が天下を治める事になった。
(R1年12月30日 松永典子)
№72 古事記齧り記20
吉野の国主は、狩猟採取的生活をしていた山の民で、宮廷に定期的に歌舞音曲を披露したり、土地の産物を献上したりと
貢献したが、
浄御原神社の例祭で今も国栖奏(くずそう)という儀式にその様子が窺える。 神功皇后が平定した新羅との交流が
盛んになり、渡来系の技術や文化が入ってきて、東漢氏(やまとのあや)西文(かわちのふみ)等、
史部(ふみひとべ、所謂省庁の様なもの)となり帝紀や古事記編纂の力となった。 今でいう高級車のごとき馬、
ワインのような舶来の美酒作り、ディスコのような最新の舞踊会、舶来ブランド物等、いわば応神バブルとも言え
そうな好景気となり、更に多くの人材、文物(論語等)が渡来した。 満ち足りためでたい御世を寿ぎ、人々
は太平と繁栄を謳歌した。以前の戦士達が24時間戦えますかと戦った後の、この充足を享受した応神が「須須許理
(ススコリ)が醸(か)みし御酒(みき)に我酔ひにけり…」と歌い、大坂の道中の大石を杖で打てば、その石は走り
去ったという。「堅石も酔人(ゑひひと)を避(さ)る」という諺も。
はて、はじけなかったバブルが曾て有っただろうか。
(R1年12月14日 松永典子)
№71 古事記齧り記19
息長帯日売命(オキナガタラシヒメノミコト、神功皇后)は、政が未だ竟(おは)らぬ間に産れそうになった御子を
鎮める為に御裳に石を纏(ま)きて竺紫国(つくしのくに)で産んだ。
皇后は大和に凱旋する途中で、香坂王(カグサノミコ)と忍熊(オシクマノミコ)が、御子と皇后を討とうと待
構えているのを察し、御子を喪船(もふね、死者の舟)に乗せ「御子は崩(さ)りましぬ」と噂を流した。将軍の建振
熊命は、更に知略を巡らせて二人を追い詰め、一人は猪に突かれ、一人は琵琶湖に自ずから沈んで、撃退した。
建内宿禰命は禊(みそぎ)をして越前の角鹿(つぬが、敦賀)に御子をお迎えした。その地の神が夢で、御子
と名を変えようと言って、大神の本名(もとつみな)誉田別神(ホムタワケノカミ)と謂(まを)すべし(日本書紀では
その後、詳らかではないが)という。その後海岸には沢山の魚が獲れた。(太子の神性を表す挿話ではある。)
応神は天の下が神の力添えで、完成されて初めての繁栄と充足を見た天皇である。 後に、
仁徳天皇となる大雀命(オホサザキノミコト)は、長じた応神天皇に召される筈だった日向の髪長比売(カミナガヒメ)
に一目惚れして、建内宿禰大臣に天皇に賜るようお願いしてくれと頼んだ。天皇は、少女の美しさを歌い、素直で
お気に入りの御子オホサザキにお与えになった。
(R1年12月1日 松永典子)
№70 古事記齧り記18
太子(おほみこ)の1人でありながらついに皇位には即かなかった希代の英雄「ヤマトタケル」の活躍により神代以来
約束された「大八島国」の領域がついに天皇の「天の下」として確立されたのである。皇位に即いた成務天皇にも子が
あったが、次に皇位に即いたのは、タケルの子、仲哀天皇であった。皇統がヤマトタケルの血統に委ねられた。
仲哀天皇の后が神功皇后である。皇后はシャーマンとしての能力が高く、よく神を帰(よ)せた。筑紫の訶志比宮(かし
ひのみや)に坐(いま)して熊曾国残党を撃たむとせし時、神の命(めい)を請ひき。大后の帰せたる神、「西の方に国有り。
金銀他種々の珍しき宝、数多その国に有り。その国を帰せ賜はむ」と、のりたまいた。天皇は、高きに登りても、国なんか
見えず、ただの海のみ有り。と答えられた。神は怒りて支配者としての器に有らずと、大臣の建内宿禰が制止する
にもかかわらず御琴を弾くのを止めた天皇の命(いのち)を崩した。国見とはリーダーとしてのビジョンを語り、イメージが湧く
ようになる物であると言われている。その時皇后のお腹には天皇の子供が宿っていた。神の御心は如何にと、お伺い
を立てて、アマテラスの意思であり、意志に従うよう裳の下に石を下げ、指示された通りに呪術を行い、新羅に出兵し
たら、殆ど戦わずして勝った。神託によると、その胎の子(後の応神天皇)の力であるという。
(R1年11月15日 松永典子)
№69 古事記齧り記17
素手で討ち取ろうぞとたかをくくり、白い猪と化した山の神に逆に討ち惑わされ、致命傷を負ってしまったヤマトタケル。
居寤清水(ゐさめのしみず)で正気に戻ったが、足はたぎたぎしく(歩けぬ状態)なった。その地を当芸(たぎ)という。杖を
ついてようやく歩を進めた。杖衝坂(つえつきざか)という。「吾が足は三重に勾れるが如く疲れた」と。(三重村)という。
そこより能褒野(のぼの)に至り「倭は国の真秀ろば たたなづく青垣 山籠れる 倭し 麗し」と、思国歌(くにしのひうた)
を詠った。 置いてきた妻と草薙の剣の事を最後に詠って崩御した。(崩御は天皇のみに使われ、古事記の文脈では全て天皇
扱い。) かくて后を失い、身を刻むようにして命からがら東征より帰り、伊吹山での大敗で絶命した。侮って草薙
の剣を置き去りにしたのが最大の不覚であった。残された一族の手厚い弔いの儀式は今(語り手の今712年)も宮中で取り入
れられているという。
魂は、八尋の白ち鳥と化し、あれ程恋焦がれた倭へは着けず「河内国の志幾」(日本書紀では羽曳野市白鳥の御陵)に降り立
った後、「天に翔けりて飛び行き」と。故郷大和に、もはや還るべき場所の無い事を悟った英雄の魂はこの世に安住の地を
見い出せず、天へと飛び去ったのである。
(R1年10月31日 松永典子)
№68 古事記齧り記16
尾張国造の娘美夜受比売(ミヤズヒメ)と婚約して東征へ向かったが、相武の国造に謀られ、火を放たれたタケルは、
周りの草を刈り、袋の中に有った火打石で迎火を付けて、焼き退(そ)け、逆に相手を焼き尽した。その地を焼遺(やき
つ→やいづ)と謂う。次に走水(はしりみず)で渡の神が海を荒らし進めなくなった時、后の弟橘比売命がタケルの身代
わりになり入水して浪を沈めた。タケルは「あづまはや(ああ我が妻よ)」「さねさし相武の小野に燃ゆる火の火中に立
ちて問ひし君はも」と詠い嘆いた。その地を(吾妻、東)と謂う。
東方十二道のみならず、その向こうの荒ぶる蝦夷どもを征討し、天の下に組み入れほぼ日本という形態が出来た。
一体どの位の時が経ったかと自問すると、御火炊(料理番)の老人が、「夜に九夜、日には十日を。」と言い当
て、タケルの功績を評価した者として、東国造(あづまのくにのみやつこ)に任命された。
タケルは、帰りを待ち望んでいた美夜受比売が、その襲衣(おすい)の襴(すそ)に月経(さはり)を著(つ)けていたのを見て
「…汝が着せる襲衣の襴に月立ちにけり」
と詠った。月経を詠ったのも吃驚だが、時は経つのですという返歌を詠い、程なく御合(みあい)。そして少し安心した
タケルは草那芸剣(草薙の剣)を置いたまま伊服岐能神(イフキノヤマノカミ)を取りに幸行した。
(R1年10月15日 松永典子)
№67 古事記齧り記15
熊襲を平らげたタケルはその帰り、出雲に入り、出雲建と呼ばれる勇者と友人になったが、一緒に肥河(ひのかは)
に沐み、先に上ってこっそり作っておいた贋の抜けない刀と取替えて、大刀合わせをしないかと持ち掛け、相手の刀
で切り殺した。 父天皇をも恐れさせた猛く荒き情は、荒ぶる敵の平定の為には強大な威力を発揮した。
天皇は、又すぐに、休む間もないタケルに東方の十二国の荒れすさぶ神と礼(あや)なき人等を、言向けて平定せよと
のりたまいた。 タケルは今度も姨の倭比売命(ヤマトヒメノミコト)に相談に行き、父は兵も下さらないで、
また東方を平定せよと仰せられる。私なんか死んでしまえと思っていらっしゃるのはどうしてかと、泣き事を言った。
倭比売は、霊剣(後の草薙の剣)と、何かあったら開くようにと嚢(ふくろ)をお授けになった。
(R1年9月29日 松永典子)
№66 古事記齧り記14
オウスは、姨の倭比売命(ヤマトヒメノミコト)に相談したら、比売の御衣・御裳(ミケシ・ミモ)と剣を給わった。
三重に軍が取り巻く熊襲建の家へ単身女装して乗り込み、女人に交って、宴、酣の頃隣に来た兄弟の兄を刺殺した。
そして、梯子の上に逃げた弟の尻から剣を刺し通した。虫の息の弟は貴女様は何者かと聞く。「吾は大八島国を知らす大帯日
子淤斯呂和気天皇(景行天皇)の御子倭男具那王(ヤマトヲグナノミコ)ぞ。西の伏はぬ二人を取り殺せと遣わされた」
と言った。「西に吾二人以上の建く強き物無し。その吾らより強い方に御名を献らむ。倭建御子(ヤマトタケルノミコト)と
称るべし」と、言って事切れた。そのまま瓜を割くように裂いて殺した。 そして還る時に山の神・河の神、穴戸神を、
みな事向け(服従しますと言わせる)、和(やわ)して上った。
オウスはまだ十五歳の超イケメンでめちゃくちゃ賢く強い。
ただ、真直ぐな心は、残虐でもあり、まだ人として未熟な状態でもあった。
(R1年9月15日 松永典子)
№65 古事記齧り記13
景行天皇には80人の子がいたが、その中の、第一妃が生んだ大碓命(オホウスノミコト)と小碓命(オウスのミコト、
後のヤマトタケル。二人は日本書紀では双子とされている)と、後の成務天皇の三人が(例外的に)、太子(オホミコ)
とされた。つまり皇位継承者という事。
天皇が三野国造の祖先、大根王(オホネノミコ)の娘、兄比売(エヒメ)・弟比売(オトヒメ)の美人姉妹を召さんと、
オホウスノミコトを遣わしたが、オホウスは二人を自分のものとし、別の女性を偽って献上した。すぐにばれたが、
大事な宴にも遅刻したり、無断欠席したりして、兄の日頃の素行の悪さを弟のオウスに懇ろに教え諭せと言った筈
だがと、尋ねたら、「すでに教えさとして、厠に入った時に木の枝のように手足を捥ぎ、薦に包んで捨てました。」
という。
天皇はそれを聞いて、オウスの猛々しく残酷な心を知って恐れ、西方の暴れ者でまつろわぬ二人の熊襲建がいるので、
取れと申し渡した。
(R1年9月1日 松永典子)
№64 古事記齧り記12
垂仁は、三宅連(みやけのむらじ)らの祖先、多遅麻毛理(タヂマモリ)を常世国(年を取らない国。
浦島太郎が行った竜宮もそうだとされる)に常に実っている時じくの実を欲しいと遣わした。ニニギが、
醜いからと岩長比売を返品(?)したばっかりに、皇ミコトも人並に寿命を負う事になったが、不老長寿
を願う事には変わりはない。垂仁もニニギのように、二人の媛を返したのだ。ここにも血の連鎖を感じさせる
伏線がある。
垂仁を慕うタヂマモリは大変な思いをして手に入れたその実(橘と言われている)をやっとの思いで
持ち帰ると、天皇はすでに崩御されていて間に合わなかった。その実を掲げ悲しみのあまり絶叫して御墓の
前で死んでしまった。 現在、垂仁天皇陵とされる「宝来山古墳」(奈良県)の周濠の内には、タヂマモリ
の墓と伝わる小さな中島が浮かんでいる。
橘は花にも実にも見つれどもいや時じくになほし見が欲し(大伴家持、万葉集)
(R1年8月15日 松永典子)
№63 古事記齧り記11
后を失った垂仁は、その子ホムチワケをとても愛し可愛がったが、髭の伸びた大人となっても口をきけず、天皇は
あらゆる手を尽くして原因を探った。ある日夢で、出雲大神(スサノヲ)の御心によるものであると知る。誓約(うけひ)
によってそれに間違いないと占った曙立王(後に倭者師木登美豊朝倉曙立王:ヤマトノシキノトミノトヨアサクラノ
アケタツノミコ:という名を賜った)と菟上王(ウナカミノミコ)の二人をホムチワケに従わせて出雲に参拝に行かせた。
一行が参拝を終えると、すぐに御子は物を言えるようになり、喜んだ天皇は、後に立派な神宮を造らせた。
ホムチワケは出雲で肥長比売(ヒナガヒメ)と一夜の契りを結んだが、その正体が蛇だと分ると恐れて大和に
逃げ帰った。この幼児性と大人になり切れない性格は先のスサノヲの血の因縁かと思わせる文脈である。
垂仁はサホビメの遺言通り、丹波の王女たち(ヒメの姪)4人を召し上げたが、そのうち二人を「甚凶醜き:いとみにく
き」という理由で送り返した。当時は常の事ではあったが、結局サホビメへの愛執を捨て切れない心の問題でもあって、
余程の人でないと充たされなかったとも言える。
(R1年7月31日 松永典子)
№62 古事記齧り記10
サホビメ奪還に失敗した垂仁天皇は、「私の下着の紐は誰が解くのか。」と問う。サホビメは、旦波比古多々須美
智宇斯王の娘、兄比売(エヒメ)、弟比売(オトヒメ)の二人を推薦した。その後、サホビコは殺されサホビメも殉死した。
天皇は后を失った悲しみで玉作りたちを逆恨みして、土地を奪うという不条理な行動に出る。 強大な権力
者といえども、「情:こころ」を断ち切る事は容易ではない。サホビメ物語は天皇といえど、皇后といえど、こころの
問題は意のままにならず、そこから生じる愛憎の悲劇もまた強大であるという事だ。そして、その子ホムチワケノ
御子―。古事記において「御子」と称されるのは、原則として皇位継承者のみ。そのうち、天皇にならなかった例外は、ヤマト
タケルと、このホムチワケである。御子はもとより皇位を継ぐべき人であった。ところがー…。
(R1年7月15日 松永典子)
№61 古事記齧り記9
崇神天皇(初国知らす御真木天皇:ハツクニシラスミマキノスメラミコト)が丁寧な祭祀で大物主神の力を借り、
「調:みつき」の貢納(税)制度を作り、国家の基盤を整えて強大な権力が確定した。
その子、垂仁
(すいにん)天皇は、従妹の佐本毘売(サホビメ)を后としたが、その兄、佐本毘古王(サホビコノミコ)が、
天皇の寝首をかけといって刀を渡す。どちらも愛していたが、成行上兄を選び、寝ている天皇を刺そうとした。
どうしてもできない后が流した涙で目覚めた天皇は、佐本毘古王と戦う。身重だった后は兄の元へ。産まれた
子は天皇の御子として育ててくれという遣いを出す。后を愛していた天皇は子と共に母も取り戻そうとするが、
サホビメは髪を剃り、服も腕輪の玉の糸も酒に付けて腐らせて、掴まれてもするりと抜け、玉は散り散り。天皇は「せめ
てこの子の名を付けてくれ。」と伝えた。 后は戦場の稲城を焼く火中(ほなか)に産めるが故に「本牟智
和気御子:ホムチワケノミコ」と称ふべしと答えた。
(R1年7月1日 松永典子)
№60 古事記齧り記8
大物主大神(おほものぬしのおほかみ)は、三輪山の神で、大和国魂(大和の地主神)といわれる。天下を治める為には、
こうした神々と良好な関係を保たなければならない。崇神天皇は、夢の神託どおりに、「意富美和之大神」(おほみわの
おほかみ)を丁重に祭って疫病や災害から国を安平に導いた。大神の子、意富多々泥古(おほたたねこ)の逸話がある。
美しい活玉依毘売(いくたまよりびめ)の元に姿のよい壯夫(をとこ)が夜な夜な通ってきて、孕んだ姫に、両親が
相手は誰かと聞いても姫にも分からない。さしずめ「めっちゃイケメンだったの、服のセンスも抜群だったしぃ。」み
たいな事を言ったのか、そこで、紡麻(うみを)を針に貫き衣の裾に刺せと指示。次の朝、糸の行方は美和山の社に留ま
ったという。糸巻三巻分だったから三勾(みわ)→美和→三輪となったとか。そのイケメンこそ意富多々泥古その人であ
り、神の子であったという。
(R1年6月16日 松永典子)
№59 古事記齧り記7
文学として読める古事記は、上巻を神代記、中巻・下巻を天皇記(日本書紀では「紀」と書く)と呼ばれる。
第二代綏靖(すいぜい)天皇から第九代開化天皇までは、物語的な内容は含まず、天皇の生年、家族、崩御年他、
家系図のみを記す。(欠史八代)
興味深いのは、この中で第七代孝霊天皇の条だけにはちょっとしたエピソードがある。
「大吉備津日子命(お
ほきびつひこのみこと)と若建吉備津日子命(わかたけきびつひこの
みこと)との二柱は、相副ひて、針間の氷河之前(ひかはのさき)に忌瓮(いはひへ)をすゑて、針間の口と為て吉備国を
事向け、和しき(やはしき)」と、吉備国の平定を語る記事が見え、注目される。
吉備は今の岡山県。「きび団子」の桃太郎の原型とも思われる。
(R1年5月31日松永典子)
№58 詐欺だったのか?
電話男「クリエイトライフの坂本と申します。」私「はい。」心(ん?知らない人だ。)
電話男「2015年度の国際文芸サミットを計画しています。」私「はい。」心(何だろう?)
電話男「ドイツの世界遺産候補のロッテンブルク宮殿にて日本とドイツの文芸展を7月に開きます。」(その日は2月)
電話男「先生は2冊の句集で主要4誌の文芸欄に高評価を受けておられますね。」私「え?まぁ。」心(一つは週刊誌で
したけどね。もう昔の事よ。)
電話男「ヨーロッパ今を生きるドイツ・日本篇というのがありましてね。そこで先生の『埠頭まで』と『木の言葉か
ら』の中から10句程額にして展示したいと思いましてね。」
心(キトウまでとよんだわね。フトウまでなのだけど。読めなくて岐阜のギにちかいからキトウと?はずれー、岐阜
のフの方でした。) 電話男「つきましては少し資金不足で、作家の方にも多少ご負担を頂きたいと思いましてね。
」 私「ごめんなさい、私、句歴は長いのですが、高名でもありませんし、お力になれません。何ならもっと力の
ある先輩諸氏をご紹介しましょうか?100人以上いらっしゃいますけど。」 電話男「あーそうですか。先生がよ
かったのですけどね。」と言って電話が切れた。
あーあ残念だったな。国際的に活躍できる機会だったのに。でも、あれから数年経つけれど、そんな話は一度も聞か
ないし、先輩諸氏に聞いても笑われただけだったのです。
(R1年5月15日松永典子)
№57 梅の花序文
万葉集巻第五 (梅の花の歌三十二首幷せて)序(読み下し文)
天平二年正月十三日に、帥(そち)の老(おきな)の宅(いへ)に萃(あつ)まりて、宴会を申(ひら)く。
時に、初春の令月にして、気淑(よ)く風和らぎ、梅は鏡前の粉を披き、蘭は珮後(はいご)の香を薫らす。
加之、(しかのみにあらず)曙の嶺に雲移り、松は羅を掛けて、蓋(きぬがさ)を傾け、夕の岫(くき)に
霧結び、鳥は縠(うすもの)に封(こ)めらえて林に迷(まと)ふ。庭には新蝶舞ひ、空には故雁帰る。こ
こに天を蓋(きぬがさ)とし、地を座(しきゐ)とし、膝を促(ちかづ)け觴(さかづき)を飛ばす。言を
一室の裏に忘れ、衿を煙霞の外に開く。淡然と自ら放(ほしきまま)にし、快然と自ら足る。若し翰苑(か
んゑん)にあらずは、何を以ちてか情(こころ)を攄(の)べむ。詩に落梅の篇を紀す。古と今とそれ何そ
異ならむ。宜(よろ)しく園の梅を賦して聊(いささ)かに短詠を成すべし。
八二二 わが園に梅の花散るひさかたの天より雪の流れ来るかも(大伴旅人)
抜粋文献(昭和53年8月15日万葉集(1)第一刷 講談社発行)校注者中西 進)
(R1年5月1日松永典子)
№56 古事記齧り記6
伊弉諾、伊弉冉は、いざなう男、いざなう女。素戔嗚は荒れすさぶ(自然)から
という説が有力。国や島々を生んだイザナミが火の神カグツチを生んで焼死した時、怒った伊弉諾はその子を切り
殺した。その血しぶきからもまた神々が生まれた。それ以来火を手懐けて人は自然を利用するに至った。後から出
てくる(水)と共に、人が(火)を手に入れる為には犠牲が必要だった。ギリシャ神話でも、人に火を与えたプロ
メテウスは手痛い罰を受けている。
大自然というものは、どんなテクノロジーを以てしても歯が立たぬという事でもある。出雲風土記の国引き神話
やら、大八島の国生み神話には、火山列島で地殻変動の激しい日本に暮らす人々の精神生活に、凶暴な自然は一体
何を象徴しているのかを心に納得させる為の寓話が必要だった。何の悪気もなく暴れまわるが、豊かな実りももた
らせる自然神をスサノヲ神話として残したのだろう。
(H31年4月15日松永典子)
№55 古事記齧り記5
古事記神話ワンダーランドでは、名前に意味がある。大国主神は、初め大己貴神或は大穴牟遅神(オホアナムヂ)
(のんびり、おっとり、ふつう)と呼ばれ少し情けない存在が、苦難を乗越え、四つの名を経て大国主神(大い
なる国の主)となったように、名前が、人格を現している。
木花之佐久夜毘売の一夜での懐妊を疑ったニニギに対し、産屋に火を付けて奇跡の出産をし、潔白を証明。確
かに天つ国のニニギの血を引く奇跡の子達(3柱)であると、証明した。つまり、火を自在に操る事が出来るとい
う暗示が含まれている。
その三男(火遠理命、ほをりのみこと)山幸彦の孫が、神倭伊波礼毘古命(カムヤマトイハレビコノミコト)
即ち神武天皇(諡号)となる。
(H31年4月1日松永典子)
№54 年を取る事
アポ電詐欺の犠牲者、歳の割には元気、歳にしては若いとか、とかく高齢者の話題は、見かけや中身の衰えに集約
されているようだ。何かのコラムに「年を取るって、歳の事しか聞かれなくなるって事よ。」と誰かが言ったと有っ
たが、何もかも衰えているとの印象だけれど、若い頃からずっと続けてきた事は、結構保っているものだ。
「放送局の取材マイクは刺すごとく生きがい何とわれに問ひかく」「孤独なる老女とみられてしまひたる入信勧め
て若者動かず」「アーティスト志望といひて表現の方法論などぶちかますかな」「戦争知らず貧乏知らず無傷の子仏
陀をタネに強請かあはれ」
私の今の齢の頃に作った、母の短歌である。賞に拘り、勝負けに拘り、子や人の気持が分からない自分本位の母が
嫌いだったけれど、50年の歌歴は嘘をつかない。老いを迎えた今、やっと人の心の暗部を表現する事の意味を理解
できるようになった。
(H31年3月15日松永典子)
№53 古事記齧り記4
神倭伊波礼毘古命(カムヤマトイワレビコノミコト、後の神武天皇)は天の下を治めるべく東に向かった。その間、
兄を失い、何度も窮地に陥り、苦難の末、遠回りして倭(大和)に着き、大物主の神の娘と結婚。東征は東遷とも呼
ばれ、今に、その謂れの古名を地名に残す。茅渟(血沼)の海や浪速、男水門、等。竈山が和歌山に成ったという説も。
大神殿の柱跡も見つかり、全く何も無かった事からこんなに複雑な話にはならない。
犠牲を払い乍ら、残虐な事件やエロティックなえげつない話等も歌謡にして、伝承文学となっている。全くの絵空事
とも言い難いのだ。 文学理論でいうと、物語の「今」は三つ。つまり物語の「今」(神武のいる)、語りの「今」
(物語の書かれた712年)、そして読みの「今」(読んでいる2019年)。対象化していてそのままではない。読み分け
て帰ってこなければならない。成り立ちだけでなく行く末も語る。神武とは後に送られた諡号である。(H31年3月1日松永典子)
№52 子供の言葉
「ねえ、ママって、この家のリーダー?何でも自分で決めるよねっ。」と、5歳のララちゃん(どう書くかわからない
けれど、可愛い名前)のかわいい反論。このエピソードを披露してくれたのはオセロの松嶋尚美。「ん?」と詰まっ
て、笑ってしまったという。
彼女の7歳のジュマ君と5歳のララちゃんの話が大好きで、(ちょうど私の孫兄妹と同じ年回り)毎回笑っている。さ
すが一級の芸人さんだ。お蔭で会った事もないジュマ君、ララちゃんの大ファンになった。私なら、「私、母親よ」
「先輩よ」「保護者よ」「お局様よ」と言いたくなる所を、大笑いで終わらせる子供の思考と言葉の力がすごい。
そう言えばNHK番組のシャレで5歳のチコちゃんの大人びた言論にも大笑いする。最近、時間の経つのが早いと感
じている私は、えっ!もうチコちゃんの土曜日が来たの?と。
もうこれじゃあ、しょっちゅう「ボーッと生きてんじゃねぇよぉぉー」と怒られっぱなしではないか。
(H31年2月17日松永典子)
№51 「古事記」かじり記3
古事記の完成は、712年。蘇我氏が保管していた「天皇記」等多くの歴史書は「乙巳の変」(我々が学習した
大化の改新は、今はその後の政治形成の事を言う。)645年で多くが焼失した。その後抜群の記憶力の役人稗田阿礼が
「帝紀」や「旧辞」等を記憶していた事で編纂を命じられた。声明のように節を付けて覚えやすくしていたに
違いない。「日本書紀」も様々な資料の断片や人々の記憶、あるいは伝承神話などを元にして編まれた
ものと思われる。(720年完成)内容は必ずしも一致していない。特に初期「神代の篇」は伝説的で解釈が分かれる
ところだ。(黄泉国や出雲神話は書紀にはない。)
「日本国紀」で百田尚樹氏も書かれているが、「古事記」は自国民に向けて書かれた、古い中国語を基本に日本独
特の文法を混ぜた変体漢文で書かれ、「日本書紀」は対外的に、純然たる漢文で書かれているという。 「万世一系」
という言葉が平成の今、話題になっているが、第125代の今上天皇迄全て初代神武天皇の男系子孫である。つまり、
天皇の父から男子(天皇の子の女帝であっても次は兄弟男子)へと継がれてきたという事。神武天皇よりのY染色体が
守られてきたという、世界的に見ても稀有な例でもある。
(H31年2月1日松永典子)
№50 「古事記」かじり記2
スサノヲは暴力性と幼児性をもっていて、何も悪気がない。大自然の裏表のようでもある。退治した高志のヲロチは、
簸の川の氾濫を表しているという説も。それらを平定して、追放された身であったのが、少し尊敬もされるようになる。
ヲロチの尾から出た草薙の剣を手に入れた。
因幡の白兎の段では、嫉妬した八十神(ヤソガミ)の迫害を受けたり、兄弟たちに支配されて少し情けないオホアナ
ムヂが、試練を乗り越えて「大国主神」と呼ばれるようになる。等身大ヒーローのサクセスストーリーである。
アマテラスの孫のニニギノミコトは、大国主神から譲り受けた地上に降りて此花乃佐久夜毘売を貰う時、その父に姉も
一緒だと、花が咲くような人生を送れる上に
、末永き命の盤石が保証されると言ったが、醜い姉を返して、美しい妹だけと結婚。それより皇ミコト等の命は
人草的有限となった。
黄泉国訪問の段で、イザナミは一日千人の人間を殺すと言ったが、逃げていくイザナギは、それなら、一日千五百人
の人を生むと言い返して人には寿命ができたのだが、スメラミコトも、人的寿命を負うのだという話でもある。
(H31年1月15日松永典子)
№49 「古事記」かじり記1
「古事記」を原文(読み下し文)で読む講座に参加している。説話その物が面白いので、バラバラに絵本や児童書
やアニメになっているけれど、順番に読めばもっと面白いという事が判った。
国作りの途中で死んだイザナミのいる黄泉国から帰ったイザナギは、アマテラス・スサノヲ・ツクヨミの三貴神を生んで、夫々の分野を治めさせた。
天の岩屋事件では、乱暴なスサノヲを恐れてアマテラスが隠れてしまったら、天つ国も葦原の中つ国(天に対しての地)
も暗闇になってしまった。これによりアマテラスが重要な絶対神という印象が浸透した。追放されたスサノヲは出雲
で八岐大蛇を退治して、助けた櫛名田比売と結婚。
その子孫である大国主神が因幡の白兎を助け、その予言により美しい豪族の娘外、地方の有力者の娘達と結婚ネット
ワークを作り、少名毘古那神の力を借りて、葦原の中つ国を作り成していった。
アマテラスは元々父の作りかけた国は、父が認めた自分の子孫が治めるべきだと、返還を迫る。大国主神は出雲に
大神殿(出雲大社)を建てる事を条件に、中つ国を譲る事にした。
アマテラスの孫であるニニギノミコトが天降り、木花之佐久夜毘売と結婚。海幸彦と山幸彦を産み、正統(正当)
派の山幸彦の子孫が、神武天皇へと繋がるのである。大掴みでいうと、そこまでが神代の物語である。
(H31年1月1日松永典子)
№48 下村一喜氏
写真家の下村一喜氏は、お嫁さんの弟にあたる。ファッション誌のボーグの表紙を日本人で初めて手掛けた人。
長男の結婚式には、もうパリと東京を行ったり来たりの、超売れっ子カメラマンだったので、間に合わなかった
けれど、式を延期してでも、じっくり話を聞いておけばよかったと、後悔しきり。
最近NHK、Eテレの、岩下志麻との対談で、その仕事ぶりと、人生観や日頃の心掛け等を紹介する1時間番組が
あった。国内外の超一流女優からのオファーが絶えないだけでなく、メディアでも度々取り上げられている。モ
デルとのコミュニケーションをしっかりとり、緻密に、丁寧に。その尋常でない仕事ぶりが、感動的な奇跡の一
枚を生み出していた。モデルを物としてではなく、人生が滲み出てくるまで、対等に話し掛ける。相手を尊重し、
雑なやっつけ仕事ではないのだ。
(H30年12月15日松永典子)
№47 禁書・偽書
「古事記及び日本書紀」という津田左右吉博士著の本が、不敬罪発禁となった昭和15年2月11日以来、平成
30年5月16日に親書版となって出版された。この本のどこが当時の為政者達の気に障ったのかと、その辺の興味
があって手にしたが、記紀の両書を科学的に比べて丁寧に分析してあった。「古事記」は国語で、「日本書記」
は漢文で書かれ、後者は官撰のもので、中国思想(陰陽原理)の影響大等、ちゃんと読めば、合理的解釈である。
戦前の言論統制で、皇室をより神格化して政治に利用しようという軍部の目論見は、却って不自然且つ無意味
だったようだ。大した思想もない私の読んだ限りでは、皇室の、文化的意義と、歴史文化継承の重要な要で
ある事を理解して深い尊崇の念さえ抱くに至った。
そういえば武田甲州流軍学書の甲陽軍鑑(含む末書)が長い間偽書とされていたが、言葉も江戸時代より古く、
まさしく室町後期のものであるとの分析がなされ、本物である事がわかってきたという。古文書の発見や科学的、
地勢的分析による新事実が上がってくる事は実に楽しいではないか。
(H30年12月2日松永典子)
№46 昼ハーモニー
ここの町名は白鳥と書いて(はくちょう)と読む。先日白鳥文化祭に顔を出した時に、パニックという名のエレキ
バンドの出し物を見た。お決まりの「ダイヤモンドヘッド」に「パイプライン」等のベンチャーズの曲で、ちゃ
んとリードにベースにキーボードにドラムまで揃った、本格的エイトビート。日本のフォークソングまで演奏し
てくれた。演奏者達も白髪頭の我ら団塊世代でその頃の危なっかしい空気その物で懐かしかった。
結婚するまでの数年働いていた三菱重工電算センターの空調室で、昼休みに(アコースティックギターとピック
で)ベンチャーズ気取りの下手な演奏をした。ハイコードをやっと覚えた頃にこの昼ハーモニーオーケストラバ
ンドは解散。数人だったが、貧乏が楽しかった時代である。あの頃の曲をずっと続けている人達がいるのがとて
も嬉しい。 (青春は忘れ物、過ぎてから気が付く。♪)
(H30年11月17日松永典子)
№45 齢も見た目?
白髪染めを止めて7ヶ月。ごま塩のごま多めといったところか。(塩多めかも)。最近、大きめの荷物を持って
乗った電車で、初めて席を譲られた。有難うね、お嬢さん。
もしデヴィ夫人があのいで立ちで前に立っ
たら(絶対に無いと思うけれど)年下の私は席を譲るだろうか?心身共に20才は若く、あの迫力である。美を保
つプロ中のプロだ。自分が年下だと納得いかないかも知れない。
女優、樹木希林の「折角出来た皺だもの」のもう一つのプロの言葉をも思い出した。
この「ローバの
休日」欄を見て、中原道夫「銀化」主宰は「僕ね、前に老婆は一日にしてならずって書いた事
あるよ。」と。ウーン、それっていい方の意味だろうか悪い方の意味か。未だに定かではないが。
(H30年11月1日松永典子)
№44 俳句コミックバンド論
慣れた狭い世界の中では言葉は段々枯れていく。わかるから。俳句はもともと閉じた処で、
言わなくてもわかるだろ?という世界。しかし流行が津々浦々に行き渡り、面白い地方語等説明しなければすぐ
には通じないからつい流行語を使う。国際的になって長く長く説明しなければならなくなるともう俳句ではない
ので、現代俳句撲滅運動でもしたくなるし、また元の「黙ってしまう二人」のような世界に戻りたくなる。
しかし伝統だ、やれ格式だ、無作法だなどと、頭カチカチな大御所と呼ばれる人達は言う。それは確かに正しい。
結社制の意義が薄れゆく昨今、ゆとり教育的に基本もできていない人が指導者として堂々とまかり通っているの
だから尚更だ。さは、さあれ、その粗雑な事を自由と勘違いする集団よりはましだと増々カチカチ頭になってゆ
く集団との、両極端になりつつあるのは困ったものだ。個々人がしっかり歴史していれば、俳句は前座のコミック
バンドでいいではないか。
(H30年10月16日松永典子)
№43 半分、赤い。
朝のNHKドラマ、「半分、青い。」が好評の内に終わった。青は、恐らく誰もが持つブルーな部分の事か。人に因って
は3分の1かもしれないし、4分の3かも。難病を持つ北川悦吏子氏らしいリアルなストーリー展開が心地よかった。
「恋はあっちょんぶりけ」で悦吏子ファンになった。(あっちょんぶりけはブラックジャックに出てくるピノコが驚い
た時に発する奇声。)
半分赤いは真っ赤な嘘の政治の世界、半分黒いは腹黒いブラック企業、半分黄色は己を知らず努力もしない
、うわべだけの若者、と考えると分かりやすい。
実は私も幼時の中耳炎によって左耳がやや聞きづらい。人に言うほどの事でもないので、会合の席等は考えながら座る
。青い度4分の1程か。これに加齢の諸々を加えて半分。いや加齢は段々進むので、もう4分の3かも。立場上人
を誉めたりしなければならないから、半分、赤い。でも半分は真実。
真実もまた真っ赤なり寒牡丹 上谷昌憲
(H30年9月30日松永典子)
№42 スルフォラファン
名前が出てこない。「ほら、あの誰々に似ている女優さんよ。」この場合、あの誰々も女優さんも顔は見えている
のに、二人共名前が出てこない。あれに出ていた人よ。のあれは出てくるから、夫にも伝わっているが、その夫も
名前が出ないらしい。通じればいいかと、その場はそれで平和裡に終わるが、時間がたった頃、出先で思い出して
「あーそうだぁ」。とつい声に出してしまい、周りの人に怪訝な顔をされる事もある。
「ブロッコリーの芽」が出なくて、「スルフォラファンという健康に良い物質が入っている物って何だっけ?」
と言った事があった。健康ブームで、TVも専門用語を教えてくれるものだから、そっちの方を覚えてしまって、
普段使っている単語が出ない。テレビでの情報は誰でも知っているので、情報の価値としては、もう常識だ。それ
をわざわざ話題にするのもなぁと思うけれど、繰り返すという事でいいトレーニングになるかも知れないと、自分
で慰めている。 (スルフォラファン、リコピン、林檎ポリフェノール)
(H30年9月16日松永典子)
№41 のりのり
のりのり つかみ がっつり いらっと スルー ちゃらい 萌え とほほ たぬきおやじ 爆弾発言
何だと思ったら、新しく広辞苑に載った新語である。小悪魔、二次元(漫画や紙媒体のヒーロー等)といったのは
まだわかるけれど、ラブラブ、癒し系、うん、ごち、さくっと、お姫様ダッコ、ときたらもう私の理解の範囲を超
えている。自分が年を取ったのだろという事は分るが、こんなのが俳句にどーっと入ってきたらどうしよう。句の
前後の措辞で、ここはこの言葉しかないという位の緊張感が、この詩形のどうしても譲れない特徴でもあるので、
そういう句をこれら新語で作ってくれる若者が果たして現れるのか。現状は、年寄り臭い素材でもって古い
言葉がかえって新鮮だと、浅い所で解釈した安易な真似が力量だと勘違いしてしまっているのも散見される。
それにしても、編集者が我らより若いのだから、自分の古さが気になってしかたがない。自分の言葉で今の気分を
工夫して詠むしかないかも知れない。
(H30年9月2日松永典子)
№40 元素
17世紀、錬金術師ブラントが大量の人の尿を煮詰めてリンを見つけた事が、人類が新たな元素を発見した最初の
明確な記録だという。世界は何からできているか?の問での最小単位が元素と考えられ、今は118個発見されている。
元素には見えない法則があり、原子量が少ない(軽い)順に並べていったら、縦横で、似た性質が周期的に表れ、
これを周期表と名づけた。何でまん中空いてるの?とか何でそうなるの?とまだ解っていない自分が歯がゆいが、高名な
文学者達はとっくに作品に反映していたのだと分って驚いた。クリスティの「蒼ざめた馬を見よ」の中のタリウム
のように、ミステリー作家は毒薬等とても詳しい。宮沢賢治や、医師作家等も。そして、高村光太郎は
千恵子抄の中で、死んだ千恵子を「元素千恵子」と題して、「千恵子はすでに元素にかえった」と詩の中で表現してい
る。そうか死は元素に戻る事なのか。
(H30年8月15日松永典子)
№39 宮沢賢治
今、桜井弘先生の元素周期律表の講義をうけているが、宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」に出てくる元素の話は、
とても興味深い。サイエンティストであると自称している賢治のこの話がこんなに深い話だったのかと改めて
思った。
私は単なる生と死にまつわるファンタジーという捉え方しかできなかったけれど、賢治が極めようとしたキリ
スト教的思想、父が信仰していた仏教、法華経の思想等も織り交ぜながら、数々の元素、金・銀・水銀・蛍石
・蛭石・ビスマス等が登場。詩や短歌の他の作品にも色んな科学用語がでてくる。
死んでゆく一家が実はタイタニック号で沈んだ魂だったという事等、色々伏線がでていたのに気づいていなかった。
有り体に言ってしまえば、主人公の名前が中々覚えられない中学生の私はジョバンニはジョブをする人、
カンパネルラはカンパをする人と決めてその人となりを考えていた。
(H30年8月1日松永典子)
№38 副作用
制癌剤と一緒に、肝臓を傷める副作用の為の薬も飲んでいる。
良薬に副作用があるように、表現の為のよい方法論には副作用がある。
俳句に於ける取合せ論は、マンネリ・平凡・未熟・スランプ等にとても良く効く薬であるが、三段切れになったり
陳腐な配合になったり意味不明や、言葉過剰、詰込み過ぎによる表現過多、自己陶酔、そして未熟のまま評価を受け
る事になりやすいが、それらの勘違いさえ気を付ければ一番怖い平凡、普通、説明が避けられる。(かも知れない)尤
も普通を普通に表現して共感を得るという事は一番難しい事であって、我々はむしろそれを目指しているといえるだ
ろう。一日に何百万もの句が出来ている現状では撰ぶ事は至難の業。多作多捨を心掛けていても他人の発想だったり
もする。
江戸中期の瓢水の句「手に取るなやはり野に置け蓮華草」とゲーテの「野ばら」は、出来はどうあれ同じ発想であ
る。人の感情やこころは洋の(古今)東西に拘わらず大きく変わるものではない。どんな方法も色んな副作用を抱え
ながらの創作なのである。
(H30年7月16日松永典子)
№37 もてる名刺
夫が転勤族だった事もあって、結婚してからも10回程の引越しをした。その間子供達も転校に次ぐ転校。私の方は
その土地で出来る仕事をやってきた。幸い高度成長期の企業のIT化による端末入力や設計等選ばなければ何かあっ
たし、俳句初学は各地に支部がある結社だったので、続けられた。恐ろしい事に句歴40年!。忙しかったけれど
充実していた。結果的に定年を迎えた大阪が一番長い。
句友の一人に、大企業の取締役夫人がいたが、この人とよく京都、奈良、南河内を徘徊して、俳句を作り合った。
ご主人が定年になられて「この頃クラブに行っても全然もてなくなった」と嘆かれたという。「それで、言って
やったのよ。貴方がもてていたのではなく、貴方の名刺がもてていたのよ。って」と。流石、利発な彼女。現役時代
の旦那様の手綱捌きも天下一品だったのだろう。
(H30年6月30日松永典子)
№36 振り向けばバカ親
バカ親で良かったのかも知れないと思ってはいるが、一つだけ今でも忘れられない苦い経験が
ある。器用で何でも頑張る下の娘に対し、長男は興味がある事以外は余り自我を出さないおっとり型。小学5年生
学年末最後の合同授業参観で、親子参加の〇×式クイズ大会が講堂であった。
最後の問題「日本の最南端の都道府県は沖縄県である。」に対し勝ち残った組がぞろぞろ〇の方に動き出した。×
には誰もいなくなり、私も〇の方に行こうと彼の手を引いたら、長男は「×だよ。沖ノ鳥島は東京都だから。」と
言う。廻りは誰もいないし、目立とうとしていると思われるのも何だなと思い、強引に〇へ。結局彼の言う通りの
説明で先生が高らかに勝利宣言の×印を掲げた。転校生であまり知名度も無かった長男の、唯一のヒーローになれ
た筈の芽を摘んだ瞬間だった。子供を信じて一人残してやればよかったのか?「最後の問題で簡単な答の筈ない
じゃん。」と息子の追い打ち。ごもっとも。
(H30年6月14日松永典子)
№35 小さな奇跡
目の前を黒いものが二匹ささーっと横切った。追っかけっこをしているようだ。やがて一匹がふわっと飛んだ。
飛んだ?よく見ると一匹は鴉。追っかけているのは黒猫。鴉はけんけんをするようにとんとんと猫を挑発しながら
逃げている。猫は時々止まってはぱぁっと掛けだす。どうやらそれを繰り返しているらしい。
あれっ?これって遊び?どうしても嫌だったら鴉は羽根があるので飛んでいけばいいのだし、猫だって追っかけな
きゃいいんだもの。パンダは遊ぶところがよく見られるけれど、猫だって鴉だって遊ぶのだ。しかもコミュニケーション
がとれている感じの絶妙な鬼ごっこ。日々の生活の中の小さな奇跡とはこういう事を言うのかも知れない。
(H30年6月1日松永典子)
№34 ありよりのあり
「どう?これ。」「うん、ぜーんぜん有りだね。」と使う。ぜんぜんというのもまず肯定の時には使わなかったが、
いつの時代もそうだけれど、手垢の付かない自分達だけの言葉を使いたがるのが若者というものだ。これらはほと
んどが時代に流される短い命でもある。その中の言い得て妙、的確というのが、ほんの少し残る事も。
「有り寄りの有り」「無し寄りの有り」「有り寄りの無し」「無し寄りの無し」の四段活用。有るか無いかの二者
択一であったものが、自分の中の気分も含めて段階を付けている。白黒つけるのが怖いのか、自尊心且つ自己保身か
が不明だが、むしろずっと段階を付けられるのに慣れてしまった当り前の価値表現かもしれない。官僚言葉の落度
のない文章の対極で、ちゃんと説明しとこという事か。若い頃「殿り」が読めず句会で恥をかいて以来、既成の語彙の
獲得を主に心掛けていた私には、その独自性がちょっと眩しい。
(H30年5月13日松永典子)
№33 教育と教養
シェークスピアが専門の女性教授が嘆かれていた。学生の要望でTOEFLやTOEICの為の実用英語
の講義を優先して
欲しいというので、英文学の中身までの講義の時間が無いという。勿体ない事だ。コミュニケーションとは何?
その国の(否世界的にも重要な)文化が理解出来なくて何の会話だろう。学校もその方針を取っているようで、一
方向にばかり偏ってしまうと、それしか見えなくなってしまう。近代、浮世絵が廃れて皆油絵に向った事があった
が、今、国際的により評価されているのは、佐伯祐三より北斎、広重ではないか。ツールとしての英語は勿論大事
だけれど、自分を見失わない確固たるアイデンティティに基づく教養が一番大事だと思うのだが…。
日常会話は、
今AIでの翻訳モバイルも相当進化してきている。英会話が得意な若い人が「後朝」を「あとぎぬ」と読んで平気
でいるような薄っぺらさより原書が読める教養の方が、人をより深く理解できるのではないかと思うのだが。
(H30年5月1日松永典子)
№32 必携入院百円グッズ
お産以来の本格入院で分かった事は、今まで食べ過ぎだった、寝相が悪い、百円グッズは超便利、という事。
薄味でも工夫された患者食は美味しかったし、スライダー式ストックバッグ大中小は中身が見えて、下着一回分
一式、シャワー用品一式、箸スプーン湯飲み一式と、用途ごとに一まとめにできるし、重ねられるし。その他、
丸い所だけのスプーンカバー、簀子入りの密閉石鹸箱、それに旦那。(若い人結婚しましょうね。弱った時は
一人では心細いもの。)
術後は人生や行く末を考える神妙さもあったが、体力が戻るにつれ、クリーニン
グのコート半額セールは
4日後までだとか、冷凍食品ストックどうだったかとか卑近な事ばかり考えるようになった。松本清張「神々の
乱心」他が読めた満足感もあったり。
市立大大学病院15階東病棟にて自分の為だけに生きた二週間、案外楽しかったのかも。
(H30年4月15日松永典子)
№31 大阪のエスプリ
大阪人と言えば一般の人も漫才っぽいという。それは大袈裟にしても長年住んでみると
色んな場面に出くわす。
中学校の卒業式にて
母A「しんちゃーん、こっち向いてぇー。」
母B「何や、子供の追っかけしてどないすんねん。」
母C「そうや、みんな我慢しとるっちゅうに。」
母D「一人だけええ気なもんや。」
この母Cの機転はプロ級ではないか。締め方がまた見事。ちゃんと起承転結だ。
クラス会の帰りにて
母E「うちの子なあ、結構もてるんやで、バレンタインいっぱいもろうてん。」
母F「そうか、そんなら旦那似なんやな。」 母E「何でー。」
母F「自分似て思うか?そら厚かましいで。」
(H30年4月1日松永典子)
№30 N・Yさんへ
拝復 N・Y様
面白かったですよ。ありがとう。
その問題、貴女方のジャンルにも及んでいるのですね。権威がどこにあるかが希薄になってきているのでしょうね。
世情も生活観も変わってきているので私達の持っている価値が通用するかも不安です。俳句でもですね、300万とも
言われる人達が俳人を名乗っている状態なので、群雄割拠状態。
テレビの句会で、「夏雲や十円で買ふ『悪の華』」という句に「太るから綿あめの事じゃない?『悪の華』って」
と堂々と若い人が言っているのを聞いておったまげました。天下のNHKですよ。ボードレールも形無しでしょう?綿
飴は十円の値打ちしかないので見たまんま。詩とは言えませんから観賞としては大間違い。どうしたらいいのでしょ
うね、この無知ぶり。誰も言わないのか、言う立場の人も知らないのか、この女性、摂食障害という病気かもね。
この方から見ると、小豚の私なぞ生きている価値がない位に不格好なのでしょうか。
コラムの松山巌氏は私の句集に威勢のいい感想と、自著2冊を送ってくれました。気さくな人です。
(H30年3月14日松永典子)
№29 オレオレ詐欺
「句集を格安で作りませんか」とか、「半年後に開催される国際的な文学祭に貴方の著書を展示する事になりま
した。海外ですが参加の意思がありますか?」とか、電話による気宇壮大な話がよく掛かってくる。「ではパン
フレットか、以前の会の資料を郵送してください。」というと、そのままになる事が多い。
最近では、離れて暮らす息子を装ったオレオレ詐欺。
風邪が流行る時期に「俺だけど、おたふく風邪って罹ったっけ?」と、空咳混じりの電話。えっ、どうだったか
なと一瞬考えた。「結婚した時に母子手帳渡したでしょう?多分それに書かれているので見て」といって電話を
切った。その後お嫁さんに聞いたら、「そんな電話してないそうです。」と。まあよくできた話ではある。
危ない、危ない。子供の事となると、成人した子でも心配になるのは、冷静沈着、女だてらにテストステロン
多めを誇っていた私も、例外ではない。愚かな母なのだと、悲しいかなこの件でよーくわかった。それにしても
抜群の演技力。もう一度掛ってきたら役者さんになる事をお勧めしようと、手ぐすね引いて待っているのだが。
(H30年2月28日松永典子)
№28 パパラッチ
高齢の上に帝王切開で授かった二人の孫。父親は東京へ単身赴任、母親はほぼフルタイムの仕事を持ちながらの
子育ては保育園無しでは考えられない。朝、熱が無くても登園中に突然高熱になる事がある。返品(笑)の連絡が
入ると、病児保育の小児科へ緊急連絡して預けに行かなければならなくなる。ジジババの当番が廻って来るのだ。
そんな修羅場を繰り返しているうちに子供はみるみる育って可愛くなってくる。運動会ともなると、張り
切って私もパパラッチ(いやさババラッチ)になるのだが、いかんせんみんなが同じ服、同じ帽子。自分の孫はどれ?
ん、赤い靴下のあれだと見定めて、しっかり撮った心算が後で見ると、全然違う子だったりして…。目も耳も勘
も衰えている事に愕然となる。その日暮らしのようにマゴマゴと孫育ての一役をかっていたのだ。そうこうして
いるうちに、いつの間にか上の子は今年一年生となる。
(H30年2月14日松永典子)
№27 地球は壊れる?
子供電話相談室での「地球はいつ壊れるのですか?」との問いに「壊れません。」と地球物理学の先生が、回答された
という。全球凍結やら生物大量絶滅やら磁極変動やらと、決して安泰とは言えない環境をかいくぐって今の人類がある
という事、地球の長い歴史から見ると、人生なんてたかが100年以下のあっという間。その只事でなさを思い、今を生
きる事そのものが大きな喜びであると、諭されたという話にとても感動した。
この話をされた物理学の先生も橘曙覧の「楽しみは…」で始まる獨楽吟52首、虚子・蛇笏の温石(おんじゃく)の句等を挙げて、
市井の小さな喜びや有難さを感じて生きようと話された。もしかしたら、哲学・思想・宗教等の見えないものへの
アプローチよりも、まず見える事象を科学する事の方が人間の不思議により近づけるのではないかと、文系思考の私
はとても落ち着かなくなっていたが、そんな事は小さな事。生きとし生ける者同士、有り難き今をしっかり楽しんで
生きる事が大事だと思った。
(H30年2月2日松永典子)
№26 ビューティフルネーム
綾小路有昭氏(故人)のお隣に住んだ事がある。東京遷都の折、天皇陛下と共に上京された歴としたお公家さんで
ある。高貴な名が芸名等によく使われているけれど、世が世なら知り合いになるのも無理な雲上人。
ご長男が「あやのこうじありみつ」と長いので二行にわけて書かれた名札変りのハンカチを胸に、(今では考えられない事では
あるけれど)お母様に手を引かれてピッカピカの一年生となる。最初の点呼で、先生が「あやのこうじ君」と間違って
呼ばれ、その後あやの君という通称を貰ったのよ。と、嬉しそうに話されていた、豪華な嫁入り道具に、お手伝い
さんも付いてきたという炭鉱王の娘さんだったママ。
「寿限無」の前座噺から、神様の名、タイのバンコクの正式名称やら、名前に纏わる興味深い話は多い。最近で言
えば、高麗屋の三代同時襲名。私が夢中だった染五郎は、一つ飛ばしの白鸚となり染五郎は只今中学生。
(H30年1月15日松永典子)
№25 「日本の夜明け」遊び
戦後っ子の遊びと言えば、物があまり無くて、子供同士で遊ぶより無かった。近くの原っぱに行くとすぐに缶蹴り
やら石けり、縄跳び、等がはじまり、大きい子がリーダーになり、小さい子は見よう見まねで一生懸命付いていこう
とした。
その中に小6くらいの映画好きの男の子がいて、小さい子を集めて鞍馬天狗ごっこをよくやった。勿論自分は鞍馬天狗
で、お気に入りの子分が杉作になった。
数人も集まると、勤王の獅子組と新撰組の二つのグループに分けて、
自分の頭の中にあるシナリオにそって「ややっ!お主は新撰組だな」といいながら、鬼ごっこチャンバラをするのである。捕まって
背中を切られると、陣地の木につながれ、全員が捕まると「杉作、日本の夜明けは近いぞ」というリーダーのセリ
フで終る。小2の味噌っかすだった私は、今何をしているのか、どっちの仲間かがわからないまま逃げ回ったが、
ドキドキワクワクしていた。セリフの「日本の夜明け」というのがその遊びの名前だと思っていた。リーダーは
長じて赤埼光という新劇の役者さんになったと聞いている。
(H30年1月1日松永典子)
№24 ここはどこ?
今、「しんかい6500の世界」という地質海洋学の講義を受けている。単なる好奇心だったのに、数式の部分になる
ととても難しくて死んだふり。
地球・宇宙物理学も、天文・地質学も密接に繋がっているという事に驚く。地球は酸素(O)とマグネシウム(Mg)
と珪素(Si)と鉄(Fe)のたった四つの元素で90%を占めるという。
日本は4つのプレート(海底岩板)が集まり、古くなったプレートの沈み込みが地殻変動を起こして地震に繋がるが、
以前は列島の弓なりが、直る方に微妙に動いていたのが、東日本大震災以降、逆に、より曲がる方に力が働いてい
るというからもう驚く事ばかり。プレートテクトニクス理論では、偶然と膨大な時間が今の地球を作ったと考えら
れていて、この宇宙は人間の為に出来たとしか考えられないという研究者もいる位だ。
プレート上の海底火山は海山と呼ばれ、歴代の天皇名や(天智海山、仁徳海山など)七曜(日曜、月曜など)太陰暦
(睦月、如月など)春の七草(すずな、はこべら等)秋の七草、その他美しい名が海山列ごとに付けられていて、やが
ては日本の傍へ寄る運命にある。諸行無常(雪山偈)。
(H29年12月12日松永典子)
№23 子連れ社会参加
地方議員が、議会に子連れで来たと、問題になっている。長い人生の中のたった3年位は、子供に時間をかけた方がいい
という人もいる。
でもね、母になって初めて知る社会の矛盾もあるのよ。実態と理想との違いがつくづくと分かるのもこの時期。
私の俳句事始めは、母が、馬場あき子や尾崎左永子等と合同歌集を出している歌人だった事もあり、学生時代か
ら歌集や句集を読んだりして習作を作った事から。
初めて近くの句会に出たのは子育ての時期だった。休日にはおむつとミルクと辞典を持って、公民館の和室の座布団に
寝かせながらの句会。温めるだけでいいカレーとおでんを交互に置いて出た。人生の先輩方の優しさに支えら
れていた。転勤族には実家も遠く、近所のママ達との連携や事情を分かって下さる年配の句仲間は本当に有難かった。
今、やっと育児に対しての対策が議論されるようになったけれど、果たして社会の構造やら法律だけの問題だろうか
とも思う。
(H29年11月30日松永典子)
№22 国宝展
本物を確かめに行きたいと思っていた矢先、全国に散らばっている国宝が京都国立博物館に集まるという。
展示が一部交替するというので、十月初旬に出かけた。
前から見たかった雪舟や、宗達の「風神雷神図」や、
大日如来坐像、火焔の土器等の前に立って、言葉も出なかった。本物の放つ光がすごい。宝物はあるべき所に
有るのが理想ではあるが、その物の持つ存在感、永遠を感じさせる雰囲気は、場所を変えてもひと揺らぎもし
ない。宇宙のひとかけらに過ぎない人間が、限られた時間の中でこんな仕事ができたのだと打ちのめされる
思いがした。その場で俳句なんぞ出来るわけがない。何年か先に想い出の中から湧いてくる物を待つ事に
しよう。
一つ一つを見にゆく事を考えると交通費、入館料、時間等を考えるととても有難い企画だったと
(つまり儲かったと)大っぴらに言えるまでに成長?した私。定住が長くなった分、やっと大阪人になれそうだ。
(H29年11月14日松永典子)
№21 東京コンプレックス
高名な歌人が、対東京逆上コンプレックスが大きな地方都市にはあると書いておられた。やい東京、ナニ澄まし
てケツカンネンとか、そこいらのムラよりドデキャーガネとか、ウンニャ、ヤマタイ国は九州タイとか、もう卑屈
と自恃のぶちかまし合いがすごいことに。
中でも言葉の問題。ちょっと違うアクセントで話そうモンなら、一斉に直しにかかる。
ちょっとした言い回しはできてもアクセントを直すのは少しつらい。文化の違いなのだと、達観するしかない。
訛りのうまい外人が増えたのは、外国語だと意識するところから始めるからだろう。而して意味の取り違い。ああ、
この為に標準語という味もそっけもないキマリをつけたのだと、思い至る。朗読では統一していないと、目に障が
いの有る方が混乱するし、転校生も困る。バイリンガルやトリミンガルで、全然乱れる事なく正確に話し分けてい
られるのを見ると驚嘆してしまう。
コンプレックスを意識する事は悪い事ではない。大阪人は実によく勉強するし失敗を恐れない。知性に裏付けされ
ていないお笑いはすぐに駆逐されてしまう。真似や二番煎じだけでは持たないのだ。
(H29年10月23日松永典子)
№20 カズオ.イシグロ氏
映画や舞台になる前に「わたしを離さないで」を読んでいた。本当に衝撃を受けた。優しく淡々とした語り口の
先にある人間の大きな闇が私を覆いつくしていった。真相がわかってくるにつれて、怖くて読むのを一度中断した
程だった。解説氏が言っているように、内容は話さない方がいいような気がする。人それぞれが、自分で何かを探
し出して感じるものが大事だ。長崎が舞台になっている「遠い山なみの光」が長編デビュー作。ノーベル賞受賞作
「日の名残り」はイギリスが舞台で、ブッカー賞も。
この人の凄いところは、称賛された物や事柄を捨てる
のは大変つらいけれど、作家がそれに固執するのは間違いのもとだと自戒している点だ。
ノーベル賞の選考者達は、作家が命懸けで書いているのを命懸けで選考しているのが解る。日本は、取りたい人
が取っていてそれが目的になっているのではないか。私は朝井リョウしか覚えていない。
(H29年10月5日松永典子)
№19 ひよっこ終る
NHK、朝ドラの「ひよっこ」が終わった。
父の失踪やら会社の倒産失業やら親子の確執やらと、皆大変な問題を抱えながらも逞しく昭和を生きた普通の人々
の物語だった。現実に打ちのめされたりしながらも、峰子のぎこちなくしどろもどろな恋、米屋の面白可愛いい
恋、運命に翻弄されて行きついた大人の恋等、ほっこりするエピソードが心を温めてくれた。昭和の歌もふんだん
に散りばめられて今まさに失おうとしている何かをリアルに炙り出していたのではないか。普通のままでいいのだ
と。ありのままでいいのだと改めて教えてくれた。
峰子は昭和22年生まれの団塊世代。私と同じで今年70歳になる。70歳の峰子、どうなっているのだろう。
(H29年9月29日松永典子)
№18 壜のふた
最近のジャムや蜂蜜のビンの蓋は固いよね。と独り言をいったら、「あなたの力の方が弱くなっているって
考えない?」と、どこからか声。
まさか、小学生の時には、ぶら下がり懸垂2分以上の力持ち女子だったのに、これしきの蓋に難儀するなんて
考えられないよと、無理矢理やっていると手首がおかしくなった。
何とかできないものかとキッチン小物入れを整理しつつ道具を探したら、昔、子供のお手伝い用にと100円
ショップで買って置いた「プラスチック製蓋開け器」が出てきた。
断捨離を(ゆるく)決意して以来あまり物を買わないようにして忘れていたけれど、おお!とても役に
立つではないか!100円商品、恐るべし。
(H29年9月15日松永典子)
№17 句会
句会は厳密に言えば発表の場ではない。作った句を主に捨てる為にある。遊びではあるが、道場である。
未発表の作品というのは、結社誌や総合誌等の公の場である活字媒体には出していないという事。媒体という
のは不特定多数の人が見る可能性があり、後に残るメディアである。(主宰、同人等の句歴も実力も十分な人の
力を借りる事になるからレベルの信頼性もある。)
自選だけの同人誌は、他選がないからまだ句会に出す前の段階。句歴数十年以上の、ある程度実績
のある者同士で句会も経ているのだったら、参考になるだろうが、今では、わずか十数年で、他ジャンル
から簡単に入り込んできた、形だけの集団が沢山存在する。形が整っていれば俳句と呼べるの
だけれど、それだけでは、捨身で短詩型文学にまで高めた芭蕉や子規等の先人をばかにしていないか?
結社俳句にもただ馬齢を重ねただけの、材料も表現も同じ金太郎飴句ばかりが並んだ退屈な誌もある。
どちらにしても、志が低いのではと、常々思っていた。最近、句会ライブと名付けられショー化した物も出ている。
「生」という意味では昔から句会はライブだった。高齢者が誰でも楽しめれば、色んな方法もありだがコツコツと
やってきたローカルの、練り上げた句をマスメディアに簡単にごっそり持っていかれるのではとの危惧もある。
(H29年9月1日松永典子)
№16 てふてふ
本を整理していたら、萩原朔太郎詩集「青猫」が出てきた。
ぱっと開けたページの「恐ろしく憂鬱なる」という項に、「こんもりとした森の木立のなかで /いちめんに白い
蝶が飛んでゐる /むらがりて むらがりて飛びめぐる /てふ てふ てふ てふ てふ ・・・・・・(19回)」
(註)として、(「てふ」「てふ」はチョーチョーと読むべからず。蝶の原音は「て・ふ」である。蝶の翼の空気
をうつ感覚を音韻に寫したものである)とある。
蝶々はおそらくは隋・唐時代の擬態語から出てきた言葉だろうけれど(iep)(dhiep)(虫偏は虫、葉はひらひら
した薄いものという意)
朔太郎は、オノマトペで、擬音語としても捉えようとした。擬態語でもあり擬音語でもあるという一種の発見をし
ていたのではないだろうか。
(H29年8月15日松永典子)
№15 欲しいもの
信号待ちをしていたら、「この町に欲しいものは何ですか?」といきなり尋ねられた。どうやら建設会社の
新入社員らしき男性。丁寧な言葉使い。まだ身に付かないスーツ。少し応援したい気もあって立ち止まった。
有ったらいい商業施設ねぇ。
「くら寿司と名古屋の喫茶店。」と答えた。駅前だから、塾と美容院と立ち飲み屋とコンビニは十分に有る。
「くら寿司は分るけど、名古屋の喫茶店って?」「名古屋の喫茶店のモーニングサービスの小倉トーストが安
くて美味しいのよ。」と答えたら大笑いされた。「さすがに大阪ですね、面白いなぁ。」と標準語の彼。ちが
う、ちがう、ここに住んで少し長くなったけれど、私、大阪人じゃないし、冗談を言った心算もない。
というかイントネーションがちょっとでも違えば「やめてんか、へんな大阪弁。」と言われ続けて、素直な私
は、はい、ではよそ者らしくいたしますと、転勤族のごちゃ混ぜ言葉を使う、自分でも何人か判らないまま。
いつまでたっても大阪人にはなれないでいるのだ。(否もっとディープな河内人かな?)
(H29年7月31日松永典子)
№14 やすらげない?
ドラマ「やすらぎの郷」。題とは裏腹にとてもやすらげないような問題が次から次へと起こり、倉本聰氏の二重
の皮肉が込められている様だ。死ぬ前の最後の手紙を誰に出すかというテーマがあった。はて、私は?と考えた。
まずお礼を言いたいよね。ミステリー作家達、ドイルやクリスティー、清張や夏樹静子、東野圭吾等その他大勢、
どれ程無聊を慰められたか。
すぐに諦めてしまう臆病な私に上質な恋の駆引きやら手練手管を教えてくれた和泉式部やオースティン。ピアノ曲
が好きで、「ラ・カンパネラ」のリストに、「夜想曲20番嬰ハ短調(遺作)」のショパン。他はベンチャーズ、
ビートルズ、ボブ、PPM等のミュージシャン。少女時代に読んだ「赤毛のアン」のモンゴメリ、「足ながおじさん」
のウエブスター。この二冊で、現実に不満があった私は孤児院に憧れた(?)事もあったっけ。親、兄弟、夫に子
供、友人、先生…と、ああどれだけの人の世話になったか、とても絞れない。かくて不義理のまま終わるのだろう。
(H29年7月15日松永典子)
№13 子育ては自分育て
IBMの英文のライセンスを持ち(今は役に立たない!)、そこそこキャリアも積んでいるので、IT関連での仕事
には困らなかったが、転勤の予感があった安城市では、企業に就職しないで、学研の試験を受けて小中学生向
けの学習塾をやった。毎月出す「塾便り」が好評で数人だった生徒が20人以上になった。その中の保護者向け
の欄に下手くそな俳句を載せた。初心者程こういう恥ずかしい事をするものだと、今思うと冷汗ものだ。
数々
の子育ての失敗もあった。子がいじめに合った原因が私にあると解った時には本当にへこんだ。
だが、一つだけ良かった事を挙げると、数々の転勤や転居に付き合わせた事である。せっかく出来たお友達
との辛い別れもあるし、学校ごとに授業の進み具合が違って、習わない箇所や重複した箇所も有ったりと、子
供なりに苦しんだのだろうけれど、それで自立心が育ったし、何とか自分で工夫する癖もついた。自己紹介も
上手になった。どこにでも気の合う友達はできて、いじめにあう事などあまり深刻に考えなくても済むように
なった。
ある時点から私は子供達に育てられた。
(H29年7月1日松永典子)
№12 ゲームの達人
藤井聡太四段の快進撃が続く。飛車を取らせて勝負に勝つといったやり方を見てシドニーシェルダンの「ゲームの
達人」を思い出した。
「ビジネスはゲームだ」と言う巨大企業の女社長ケイトの回想録だが、自分に反発ばかりしている真面目な息子の
トニーの結婚相手を、自分の選んだ人に決めようと画策。「あなたはこの娘さんと結婚しなさい。もうじき石油王の
お父様とここにお見えになるからね。」と写真だけ渡して自分はさっさと仕事に戻った。トニーは奥の小さな部屋に
隠れたが、そこにはIT企業を一代で立ち上げた中堅企業の社長の娘がいた。「僕は母の押付けが嫌で暫くここに居よ
うと思っているのです。」と。二人はたちまち恋仲となった。それがケイトの思惑通りだったとは知らずに。「あな
たは私の顔を潰してしまったのだから、これからはビジネスに関しては私のいう事をお聞きなさい。」という約束ま
で取りつけられて。
まるで孫子の兵法みたいな話だ。心理戦で戦わずして勝つ、迅速、長引かせない、己と敵を知る。天賦の才能と大器
が要るのだろうなぁ。
(H29年6月15日松永典子)
№11 脚は突っ張るけれど
長くなった人生。科学の進歩や歴史の教訓、ハイテクの一般化等のお蔭かとも思う。しかし実体は、50歳分の
長さのゴム紐を目いっぱい伸ばした状態なのかも知れない。急に動けば切れ、誰かにどこかを持ってもらっている
のを忘れ傲慢になると、手を離されて転ぶ。いつ崩れるかわからない地球の薄氷の上での不安もある。自然の言葉
を聞き、色んなものと折り合って大事に生きてゆく外あるまい。
若い頃の毎週十句句会を何年も続けた鍛錬の日々のような無茶はもうできない。息急き切ってきた分、見過ごし
てきた事等にじっくり時間をかけたい。ゆっくりと丁寧に作品を仕上げなければ。時間や手間をかけたものには本
物が多い。推測や又聞きであった事等、学問を過大評価しないで、なるべく自力で確かめたい。脚が丈夫な内は歩
き、見える間は自分の目で見て、触って、聴いて、感じてという時間をたっぷり使いたい。若者に本物を残したい。
日本の言葉の豊饒さに触れもっと体験したい。人類が滅びるのを阻止するのに出来る事を考えたい。
何だ、まだやりたい事いっぱいあるではないか。
(H29年6月2日松永典子)
№10 ボランティア
特別養護老人ホームで週1回、東京の元NHKアナウンサーの厳しい指導の下、朗読ボランティアで俳句入門書や
歴史小説等を放送していた。職員の方に「反応がなくても気にせずにやって下さい。」と言われていたが、下の子
の朗読の宿題「かさこじぞう」を聞いて、ホームに連れて行ってその教科書を読ませてみた。
終わって二人で放送室を出ると、お年寄達が大勢見に来ていた。職員の方も「こんな事は初めてですよ。お子さ
んの声に反応したようです。」と。
どうせ反応はないし、練習の心算での技術獲得が主目的になっていた私は胸を衝かれた。無表情と言っても老人
の心は空っぽではなく、心の奥底にその方の来し方・人生がいっぱい詰まっていて、取り出せないだけなのだ。
現実を受け入れ自己表現をしなくなっただけ。幼い子の高い声に何かを思い出して、いたいけな子供を守らなければ
と心配して来てくださった人格者達なのだ。この世で私達の為に一生懸命生きていて下さっている方達なのだ!と
その時に気付いたけれど、今なら判るのです。
(H29年5月9日松永典子)
№9 ミントガム
ミントガムのパッケージはスーパーマーケットのお得意様カードに似ている。カードを出したつもりで、うっかりミントガムをレジに
見せてしまった。あっと思ったけれどもう遅い。レジと後ろの人に笑われていた。
その他スーパーでの失敗は数知れず。
「お客様、後ろ空いています。」とのレジの人の言葉に、
スカートの後を見たが、閉っていた。「後ろのレジです。」と。
日常でもかくのごとし。ある日の朝食。トーストと、林檎半分を皿に置き、バターを食パンではなく林檎半分の方に塗ろうとした。ムムム。
もう天然だか加齢だかわからないよぉ。と、夫も常日頃言っている。
(H29年5月2日松永典子)
№8 いとしのシルコサンド
転勤族だったせいもあり、引越しする事17回。子供達もその度に転校させてきた。
安城市に移り住んですぐに、小学生だった兄妹に同じニックネームが付いた。「シルコサンド」。何それ?と
聞いても笑って教えてくれないらしい。
ある日、スーパーで、「しるこサンド」というビスケットを見つけた。
これだぁ!小さな字で松永製菓とある。
地方のCMで、頻繁に「まつながのしるこサンド」と出ていたが、
私達が居る間には偶々休んでいたようだ。その内にまた転勤になり、その後CMも復活したという。
その子供達も
それぞれ結婚して独立。
長男は企業のIT技術者となり、炊事をしていた私のお尻に向って「あなたは世界一のおこりんぼ
さんなので、表彰します。」と言って表彰状をくれた娘は2児の母となった。
(H29年4月14日松永典子)
№7 嘘つき
言葉は嘘つきである。
本当の事だけでは生きていけない。振られたのではない。自分から身を引いたのよと言って自分を納得させるのが言葉。
自分は悪くないと思いたいけれど、短気で物を知らないとんまな自分がいる。
思った事を言葉にすると言っても、いざ言葉
にしたら、少しずれる。言葉を得て多くの物を獲得したけれど、より多くの物を捨てなければならなかった。
人の弱さも身勝
手さも孤独も、本当の事って何だろうと思う。
本当らしさのリアリティーを求める為に俳句をやっているのだろうか。ツ
イッター中毒者の事は笑えない。心の目で見ようとしても、自分の心の景色がどうなっているのかは言葉に出してみなけれ
ば分からない。言葉に引きずられる事さえある。作句を数十年やっていると、現実とは別に心にも日常にも四季があると感じる。事実と
照らし合わせたらそれは全くとは言わないが、嘘である。
(H29年4月3日松永典子)
№6 答
リケ女(理科系女子)の走りである数学を専攻した友人に、なんで数学?と聞いた事がある。
「答が一つだから、楽でしょ。」と返ってきた。
俳句は、答は一つではない。いかに分かりやすく人に伝えるか、何回も確認し、読み直し、自身の頭で考え、
審査し、言葉や文字を吟味しなければならない。そんなにしてやっと自選した句を句会に出し、いかに共感
を得るかとか自分の勘違いがないかを諮る。だから独学はとても難しい。一人でも考えられる数学とは対極
にあるのかも知れない。が、数学もハイレベルな次元では独創力が要るという。難解な道筋に偶々到達した
時には、こんな事を思いつく人を含んだ、造化の妙に感動するとも。
詰まる所、世界とは何か、人とは何か、心とは何?この世や宇宙の真相はどうなっているのか、を探るという
点では一緒なのかも知れない。俳句は楽しみつつ、普段はほんのゲーム感覚でやっているに過ぎないのだけれど。
(H29年3月17日松永典子)
№5 諸行無常
イヤホーンのコードを洗濯してしまった。
誰かのポケットの中から出てきた物らしい。そそっかしいのは若い頃からの性癖だから断じて老化ではない!…
と、断言もできなくなった。毎日何かを探しているし、三つの用があったら一つはだいたい忘れる。その分無駄な動
きをするので、運動にはなっているのかもしれない。
そういえば同じ本を買ったり、人に貸している物は覚えているのに、自分が借りたものは忘れていたりもする。
それでも年を取るという事はそれ程悪い事ばかりでもない。「昔は吉瀬美智子に似ていたのよ」と見栄を張っ
ても、最近知り合った人は、そうなのかと思う人もいるかもしれないし。都合の悪い事は、忘れる事も「そりゃ
あ有るでしょうよ」と、許して貰えるような雰囲気もある。自分ではきっちりと確認しているつもりだけれど、
大丈夫か私、と言いたくなる事も。
昔ほど自分の失敗を気に病まなくなったのは、世間は急には変わらない
けれど、確実に変わるのだという事がわかっているから、ジタバタしてもはじまらないのだと思えるから。
年を取ったからね。
(H29年3月3日松永典子)
№4 恐い看護師さん
「注射させて!」
「いやじゃないの、しないといかんのよ。せな足がもっと痛くなるのよ。ほら他の人達は
黙って横になってはるやろ。触ったらダメなのよ。嫌じゃないの。」
「ダメな事ないの掻くからダメなの。」
「お名前言える?自分のよ、妹さんのじゃないの。足みてごらん、ほらパンパンになっているから。」 「座ってご
らん、車椅子乗るか?」 「脈見るからじっとして!!」 「春野さんお名前はなに?花子さん、じゃ花子さん注射さ
せてね。」
「今注射しとるから押えないとダメなのよ」 「ほらちゃんとこうしてやっとこうね」 「お年は?今
お年はおいくつ?結婚はしてたん?」 「何かジュースのむ?」 「お家はどこ?自分のおうちよ」 「ほら、もうできた
。よかったね」 「触らないとだめって?触ったらまた何回も注射せなあかんようになるよ。お家はよ帰りたいやろ?
絆創膏貼っとこうね。」
夫の癌の手術を待つ間に、病室から聞こえてきた看護師さんの大声。患者さんの声は聞こえなかったけれど、私が
もし認知症の上に怪我等をしたら、この看護師さんに看てもらいたいと思った。それにしても大変なお仕事だ。
(H29年2月19日松永典子)
№3 金星
今、金星が一段と輝いて美しい。地球より内側に有るので、地球に一番接近し明るい時は望遠鏡で見ると、半月
から三日月形になっている。金星が満月形になると太陽と同じ動きになるので明るくて見えない。そして明けの明
星へと変わっていく。
金星には、夕星、太白、明星、長庚、ヴィーナスと世界的にもいくつもの呼び名があり、夕星は「ゆふづつ」と
して「枕草子」星の項の3番目にでてくる。星は筒とも呼ばれていて、特に宵の明星として、古代から愛でられていた。
「星はすばる。ひこぼし。ゆふづつ。よばひ星すこしをかし…」すばるは昴。統ぶるからきた和語である。プレ
アデスという星団で、400光年離れていて肉眼でも見える。よばひ星とは彗星の事。「呼ばう、婚う」による。
所謂「夜這い」。「尾だになからましかば、まいて…」と続く。尻尾がなきゃもっといいのに…と。
俳句をやってなかったら、10年以上も天文ファンではなかったかも知れない。藤原定家の「明月記」に出てくる
「いきなり明るい客星が現れた」との記述が牡牛座カニ星雲の超新星爆発の事ではないかと、つい最近指摘された。
それから世界中の文学や書物の星についての記述が調べられるようになったという。文系理系に拘わらず文書に日付
を書く事は次の世の為にとても大事だ。「きんぼし」と読むと双子座の一つ。それと相撲のあれ。
(H29年2月3日松永典子)
№2 PPAP
「ペンパイナッポーアポーペン」と世界中が歌っている。ピコ太郎と名乗る日本人がネットで流行らせた歌だ。
何だか「オッぺケペッポーペッポッポー」に似ているではないか。
明治の中頃、川上音二郎が幕間の余興として
歌い、風刺的な内容で大受けしたが、PPAPの方は風刺でさえない。調子の面白さと無意味さが受けたのか、そ
れだとしたらいっそ無意味なオノマトペの、無意味な俳句はできないかと考えた。
「ペンパイナッポー」ま
でを上七、「アッポーペン」が中五、と無理矢理当てはめ、あと下五を季語にしてみようかな。「福笑い」としたら
真っ当な笑いになってしまい、逆に面白くない。「福は内」としたら季節が変わるというイメージで、何とか意味
的に踏み留まるかも。しかしめでたさが後退してしまった。「松の内」としたらどうだ?めでたさも松の内まで、
今に飽きられるよねという気分もあるし。「ペンパイナッポーアッポーペン松の内」どうだ。片仮名を句にするのを
異様に嫌がる評論家が眉を顰めそうだが、なに構う事はない。戦争中に英語禁止だと刷り込まれて只単に嫌いなだ
けな人もいる。私も美しい和語を使いたい方なのだ。俳には元々遊び戯れの意があるし。うーん、しかしどう贔屓目
に見ても、遊び過ぎだなぁ。
(H29年1月22日松永典子)
№1 ローバの休日
ローバの休日?
老婆の休日と漢字表記にしたらあまりにもあまりではないか。だいたい日本語には表記や言葉の置き換え等
による手触りの様なものがある。その為に言葉を選ばなければ、激おこプンプン丸(あっ、古いか、ちょっと前に
はやった所謂女子高生言葉で、怒るの最上級)になる人が続出だろう。老女ならまだしも、老婆なんて絶対に認め
ないぞと自分では思っていても、膝が痛い、名前が出ない、何もない所で躓く、その他いろんな事象がどっと押
し寄せている。最初の団塊世代は、今年それぞれの誕生日にこっそりと古希を迎える。
古希。杜甫、曲江詩「人生七十古来稀」よりきているらしい。古来まれだと?やっぱりこの時代のこの日本に
生まれて良かったのだろう。まだ、この世の事を知りたいから元気で暮らしたい。9月まではアラウンド還暦だも
の、まだまだ洟垂れと思いたい。
90代であんなに大声が出せる作家の佐藤愛子さんがいらっしゃるではないか。「ローマの休日」をもじった
「ローラの休日」というタイトルで料理コーナーを担当しているローラちゃんよろしく「ローバの休日」とでも
名付けて、ひとつ大風呂敷を広げてみようかと思った次第である。
(H29年1月6日松永典子)