更新日:令和5年2月8日     松永典子(ふみこ)
お堀の鴨
   やっとお堀に鴨が戻ってきた
   悠然とおよいでいるのを眺めるのは気持ちのいいものだ。
   しかしすぐに北へ帰る日もくる。
お知らせ チェックしてくださる方へ 時間的に少しずれる事があります。 第3土曜日PM1:00 会場、教育会館。

他誌才彩(帯15) 2023・11月)長浜 勤 すぐに酔ふことも謝り茸汁
      捨ててすてて残りし手紙紅葉濃し   梶本きくよ
      夜の巷さまよひ出たり西鶴紀     宮田彼岸太
      死者よりも生者なつかし秋彼岸    中村鈴子
      葉の先にとどまる限り露といふ    喜岡圭子
      曼殊沙華水の流れを変へる水     新井秋沙
      三日月の鋭きひかり胸底に      榛葉伊都子
俳句ウォッチング
中原道夫
  色変へぬ松霹靂もいくたびか

20年目のサイト
 ウェブサイトでの発表の場をと考えている。まず内容がしっかりしている事、少しでも曖昧な選考や 、あやふやなままの内容は、確かめてからと心掛けてきた。お蔭で出版社等の信を得てある程度の 評価を頂いた。句作は、どんなやり方でも構わない。その集団の良識を信じ、人としての良心に恥 じなければ、各々が楽しめばいいと思う。個人の功名心や虚言癖を現実にまで持ち出す困った一部 の輩もいるが、向上心に繋がればいいとしよう。そういう諸々の要素など一切を引き受けて、俳句形式は懐 深く存在してくれている。最低のルールさえ守ればという但し書きは付くが。  句会は無記名投句、 無記名選句が原則。サイトが印刷媒体と同等の質を保つ為には、発表の前に印刷同様しっかりした 校閲作業が必要で、紙の原稿でのチェックは欠かせない。小さな事も見逃さないように努力しなけれ ばならない。そうでないと、必死で日夜頑張って印刷物の質を保とうとしている人達に対して失礼 である。ましてや記名のついたままの選句なぞ以ての外、登四郎や翔両先生やその他一流の俳人達も、 そんな事は埒外だった。当たり前の事である。その為に初めに無記名の句会をやるのである。それを 参考に主宰であっても、それらを考慮にいれていた。 そういう努力が、一段低く、軽く見られているウェブ上の内容にも光を与えるのでは ないかと思っている。
令和3年3月6日 コロナ禍で少し遅れた後書   松永典子  
15年目のサイト
 十五年目を迎えた。ここから堅実な賞をとった人も出て一応の成果を上げる事もできた。個人の 努力ではあるが、一緒に鍛錬をした仲間達の力も大きい。先師能村登四郎のオフレコ発言で、俳句 はアカデミックにしてはいけない。常に同じ土俵で、句会によって鍛錬する事が大切で、無記名で 選ぶ事を(作者が判っている句は欠席投句でも選ばない)原則とするといっていた言葉が甦る。倦ま ず弛まず侮らずを心に、これからも楽しみながら仲間を大事にしたい。
 ウォッチング欄は、頂いた句 集の中から明らかな誤字、誤変換、語句の誤用がないものをなるべく紹介させて頂く。出版社にも 責任があると思うのだが、意外にを以外にという誤字に、同じ句が二句はいっていたり、夕星は 古歌より金星の固有名詞で夕筒とも書き、ゆふづつと読むからそれが複数あるような詠み方はプロ とは言えない。と、論えばたくさんある。一生に一度の事でもあるだろうにと思う。かなり有名な 人もいるので、何をかいわんやである。逆選や、批評、忌憚のない指摘は現実の句会の中でやろう。 丁々発止の清々しい戦いは、気持がいい。句集では選びぬいた句を並べよう。
平成27年9月8日 松永典子  
10年目のサイト
 十年目を迎えた。まだ俳句のサイトは数える程しかない時代であった。 本来人格と言葉は一体となるべきものだが、匿名性の高いネット上では、どんどん 分離されてゆく予感があった。注意深くしても掲示板等は力のベクトルがあらぬ方に向いてしまう事が あるので、作品の発表だけにした。自然に任せても、行くべき方向は見えてくる事もあるが、言葉の恐さも 少しは知っている小心者にとっては、責任の取りようもない程のダメージが待ちうけている事に怖気づく。 便利さ優先の結果の今の地球の状況のように。
 俳句には今すこし辛抱をして言葉にするという習性が あった筈だが、昨今、堪え性のない自己顕示欲だけが目立っているような気がするのは私だけだろうか。 新語を使ったからといって、新しくなる訳ではなく、句の新しさは別のところにある。現代人が現代を詠む と言う事自体に価値を置くのは古いのか。
 反面、現代人は自分の祖先達の蓄積してきたものの価値に 気付いていないか、意識して捨て去ろうとしている。捨て去る事は大事な事だが、それは青臭い観念臭とか 鍛錬の足りない言い訳などであろう。普通の人が詩に触れる事の価値を積極的に勧めたい。普通の自分が 努力し、考え、研かれた言葉を使う事こそ、日本語を次の世代まで忘れずに渡せる方法ではないだろうか。
平成22年9月8日 松永典子